港区の地形は、大きくは東側に広がる低地と西側の台地に分けられる。台地は標高約 30~40m の平坦面を有し、区の中央を流れて現在の浜松町駅周辺で埋め立て前の河口域を形成する古川及びその支沢によって刻まれていくつかの台地群をなす。台地群は、北から赤坂台地、青山台地、飯倉台地、麻布台地、三田段丘、白金台地、高輪台地などと呼ばれている。一方、低地は古川及びその支沢の形成する沖積低地と東京湾に面する砂州・砂堆及び埋立地からなる。台地と低地の境では急な斜面を形 成し道路は急坂となっており、さまざまな名前のつけられた 80 余りの坂の名前から は港区の歴史や文化だけではなく、地理的環境を知ることもできる。(港区HPより抜粋引用)
傾斜のきつい坂を取り上げてその位置を確認してみると、
【赤坂町名由来】
赤坂の起源は、見附から四ッ谷へのぼる「紀伊国坂」のこととされています。坂上に茜草(あかねぐさ)が生えており、「赤根山(あかねやま)」と呼ばれたことから、赤根山にのぼる坂を赤坂と称するようになったというもの。
「染物屋が坂に赤い絹を干したから」という別の説もあります。
しかし元赤坂町があったのは千代田区側で、赤坂見附の造成により現地に移されました。
美濃や三河の赤坂と同様にこの周辺が赤土の坂であったことに由来するという説や、松平安芸守の下屋敷内の地山が赤土であったという説、他にも、紀州徳川家の中屋敷(現在の迎賓館)周辺に茜草が多く生えていたので、「赤根山」と呼ばれ、この山を登る坂なので「赤坂」となったという説などがあります。現在では赤土や茜草を見ることはできませんが、坂が多い街であることに変わりはありません。「赤坂」の名が付く町名は「赤坂」の他に、「元赤坂」があります。
「染物屋が坂に赤い絹を干したから」という別の説もあります。
しかし元赤坂町があったのは千代田区側で、赤坂見附の造成により現地に移されました。
美濃や三河の赤坂と同様にこの周辺が赤土の坂であったことに由来するという説や、松平安芸守の下屋敷内の地山が赤土であったという説、他にも、紀州徳川家の中屋敷(現在の迎賓館)周辺に茜草が多く生えていたので、「赤根山」と呼ばれ、この山を登る坂なので「赤坂」となったという説などがあります。現在では赤土や茜草を見ることはできませんが、坂が多い街であることに変わりはありません。「赤坂」の名が付く町名は「赤坂」の他に、「元赤坂」があります。
●赤坂台地
・榎坂 飯倉台地の斜面 虎ノ門1丁目 |
●麻布台地
・植木坂 三田段丘と飯倉台地との間 麻布台地の東側でもある 麻布台3丁目 |
・洞坂 三田段丘の入り組んだ斜面 高輪3丁目 |
港区の坂を今になって振り返ってみると、再開発の名のもとに閉鎖されたり名前だけが残されるといった都心の中心部ならではの現実を突きつけられた感があります。
稲荷坂記載内容を転用
「近くにある、落合坂・三年坂も同様の運命をたどるのではないでしょうか。
プロジェクトの計画ではこの辺り(我善坊谷)がメインタワー(330m)予定地に見えます。古き良き東京は益々消えゆく運命なのでしょうか。滑り止めが施された勾配の坂でした。」
再開発地域にある稲荷坂 |
すでに地図上では閉鎖になった落合坂 |
武蔵野台地の東端にもあたり、入り組んだ台地と低地が織りなす傾斜が坂となり、人々から様々な名前を付けられて時には嫌がられたり、目印としての存在として重宝されたりしたのであろうと思われます。
できるだけ、坂の傾斜がその名前の由来とともに長く残っていくことを望みます。
坂の位置を示した地図はこちらになります。
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