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8月, 2021の投稿を表示しています

王子大(おうじおお)坂[地蔵坂][宇都布坂][うつり坂]

  場所:東京都北区王子本町1丁目 【標識(北区教育委員会設置)による説明】 [由来分類:形状(大きさ)]   飛鳥山(あすかやま)に沿って東におりた岩槻街道(いわつきかいどう)は、石神井川(しゃくじいがわ)を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱(おやばしら)の位置から北西に台地を登る。この坂が 王子大坂 である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵(こそだてじぞう)があったので 地蔵坂 とも呼ばれ、昔は縁日(えんにち)でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥(うとう)の嘴(くちばし)のようなので「 うとう坂 」の名もある。 権現坂 と坂下を同じくして東から西へ上る坂です。王子本町1丁目25番地と28,26番地の間を上ります。少しきつい勾配のある坂です。( 6% :14m/220m)岩槻街道が幹線道路で他と比べて大きいから大坂となったとか・・。 《撮影日:2008年10月9日》

三平(さんぺい)坂

  場所:東京都北区岸町1丁目 【標識(北区教育委員会設置)による説明】 [由来分類:旧地名(三平村)] 名主の滝公園(なぬしのたきこうえん)の北側に沿って西へ昇り、岩槻街道(いわつきみち)へ出るかなりの急坂です。昔の三平村という地名からこの名が付きました。台地の農家が使っていた水田への通路だったものです。 北区立名主の滝公園の北側を北東方向から南西方向に上る坂です。相当きつい勾配のある坂で滑り止めが施されています。( 12% :15m/130m) 《撮影日:2008年10月9日》 <坂の途中で>👀📸 名主の滝公園(北区HP飛鳥山博物館より抜粋) 江戸時代の安政年間(1854~1860)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開いたのが始まりで 、“名主の滝” の名前の由来もここから来ました。庭園として整備されたのは、明治の中頃で、垣内徳三郎という人の所有になってからでした。昭和13年には、株式会社精養軒が買収し、食堂やプールなどが作られ公開され続けてきましたが、昭和20年4月の空襲により焼失し、ようやく東京都によって再公開されるようになったのは昭和35年11月でした。

王子稲荷(おうじいなり)の坂

  場所:東京都北区岸町1丁目 【標識(北区教育委員会設置)による説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:王子稲荷神社)] 王子稲荷神社の南側に沿って西に登る急坂です。この道は旧蓮沼村の中山道から分かれて姥ヶ橋(うばがばし)を経由し、現在の十条駅の南端を通り、さらに進んで日光御成道に合流する「王子稲荷道」(おうじいなりみち)「王子道」(おうじみち)です。江戸時代には多くの参詣人で賑わいました。 王子稲荷神社の南側を北東から南西に上る坂です。滑り止めが施された結構きつい勾配の坂です。( 14% :17m/120m) 《撮影日:2008年10月9日》 <坂の途中で>👀📸 東京都神社庁HPの王子稲荷神社によると 康平年中に征夷大将軍、源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂く。小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められてきた。  現在の御社殿は十一代将軍家斉公により新規寄進されたもの。  落語「王子の狐」の舞台でもある。 と書かれていました。( 東京都神社庁HPより引用)

無名坂(大林フローラ横の坂)【上中里1丁目】

  場所:東京都北区上中里1丁目 蝉坂 を下りJR京浜東北線に沿って進むと右手に大林フローラ上中里があります。その横を駆け上がる坂です。相当きつい勾配があって滑り止めが施されていますが、それでも上るのには大変そうな坂です。( 15% :10m/66m)坂下・坂上ともに車止めがあるので歩行者専用道路なのでしょうか。 《撮影日:2008年10月9日》

モチ坂

  場所:東京都北区上中里1丁目 【標識 (北区教育委員会設置) の説明】  [由来分類:植物(モチの木)]     ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向う上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治十年代の『東京府誌・村誌』には モチ坂 とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。 上中里1丁目7番地のJR線側の崖淵に標識だけが残されています。 北区HP(飛鳥山博物館)でも かつて坂道が存在したところは、鉄道敷設部分にあたり、現在ではその様子を見ることができません。 とあります。坂があったことの印だけでもあるのがありがたかったです。 《撮影日:2009年7月4日》

蝉(せみ)坂 [攻坂]【上中里1丁目】

  場所:東京都北区上中里1丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(合戦・戦場跡)]    六阿弥陀堂の途上でもある 蝉坂 という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記』上中里村の項に「平塚明神ノ傍ニアリ、登リ三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約54mから72m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀堂第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の『東京府志料』では「或云(あるいはいう)、 攻坂(せめざか) ノ轉訛(てんか)ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和18年7月、昔の坂を拡幅して出来た道です。(北区HP飛鳥山博物館より引用) JR京浜東北線上中里駅の南側、平塚神社の南東側に位置する坂で、北から南へ上っています。緩やかな勾配の坂です。(5%:9m/180m)上中里1丁目38,46番地と47番地の間にあります。 《撮影日:2008年10月9日》 <坂の途中で>👀📸 坂下にある平塚神社 平塚神社のHPによる略縁起(平塚明神井城官寺縁起絵巻より)によると(HPより引用) 平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。  徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。 とあります。平安時代からの由緒ある神社のようです。

車(くるま)坂【上中里1丁目】

  場所:東京都北区上中里1丁目 【標識なし】 [由来分類:使用用途]  滝野川女子学園の東側から北に下り、JR線路沿いに西に曲がり、車坂橋でJRの線路を跨ぐ坂です。上中里1丁目12番地と27ベンチの間を南へ上る坂です。少し勾配のきつい坂です。( 7% :8m/120m)ずっと名前が無い坂(無名坂)と思っていましたが、「北区の年整備計画から車坂跨線人道橋昇降施設・・」(2008年当時)から知りました。今ではエレベータ2基が設置されているようです。 《撮影日:2008年10月9日》

権現(ごんげん)坂【王子本町1丁目】

  場所:東京都北区王子本町1丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:王子神社)]   権現坂(ごんげんざか) とは、この坂を下った交差点から王子神社の鳥居付近まで登っていく坂道をいいます。権現という坂の名称は、王子権現社の権現から採った名前ですが、これは、神仏分離以前の王子神社が王子権現と呼ばれていた点に由来しています。坂の下の交差点付近は江戸幕府の将軍が日光東照宮に参拝するための日光御成道の路上にあたり、ここは、三本杉橋という橋も架かっていました。 三本杉橋は橋の袂(たもと)に三本の杉があったのでつけられた名称といわれています。 王子本町1丁目1番地にある王子神社の北側から西側を境内に沿って走る坂です。途中直角に折れる部分があります。上の写真は北側からJRの線路および北とぴあ方面を見たものです。緩やかな勾配の坂です。(4%:6m/140m)坂下は 王子大坂 と同じ場所です。 《撮影日:2008年10月9日》 <坂の途中で>👀📸 坂の名称由来となった王子神社の御由緒は、 御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」とお呼び申し上げます。紀州(和歌山県)熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、世界遺産にも登録された熊野古道には多くの王子神が祀られていたといわれます。  創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。  戦国時代、当地の領主となった小田原北条氏も当社を篤く崇敬し、朱印状を寄せて社領を安堵しております。  徳川時代に入ると初代家康公は天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」

飛鳥大(あすかおお)坂

  場所:東京都北区王子1丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:旧地名] いまはきわめてゆるやかな勾配だが「東京府村誌」には「飛鳥山坂, 本村(滝野川村)にあり, 飛鳥橋の方に下る。長さ一町十二間三尺, 広さ三間, 坂勢急なり」と記されているように都内でも有数な難所であり, 荷車の後押して手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の, 日光御社参の行列もここを通った。 王子の飛鳥山公園の北西側の都道122号線の坂でカーブを北から南東方向に上ります。都電荒川線が走る坂です。緩やかな勾配の大きな道幅の坂です。(5%:7m/140m)  私事ですが、東京に出てきて勤務した会社が当初は北区にあったので、飛鳥山で花見🌸をするために午後から会社を休んで場所取りをしたりもしていました。もちろん家族とも花見に出かけました。近くの音無親水公園も遊び場の一つでした。石神井川沿いに板橋方面から遊歩道を歩きながらの花見も圧巻でした。 <寄り道で見つけた>👀📸 JR王子駅前の都電荒川線(2007年7月撮影) 音無親水公園(石神井川)に架かる音無橋(2007年4月撮影) NHK大河ドラマ「晴天を衝け」主人公の渋沢栄一の 資料館がある飛鳥山公園(2009年7月撮影) 飛鳥山公園は桜の名所でもあります(2005年4月) 飛鳥山公園の北東斜面(JR線路側)には 沢山の紫陽花が植えられていたのを憶えています。 (2009年7月)

無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅴ)

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅲ) の途中から南へ上る坂です。赤羽西6丁目13,12番地と10番地の間にあります。緩やかな勾配の坂です。(4%:5m/120m) 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅳ)

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 無名坂(赤羽西6丁目の坂1) と 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅲ) の坂下から南へ上る坂です。赤羽西6丁目13,12番地と24,29番地の間にあります。緩やかな勾配の坂です。(4%:5m/120m) 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅲ)

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅰ) と対峙して東へ上る坂です。赤羽西6丁目14,15番地と13,10番地の間にあります。坂上は本郷赤羽線(都道455号線)です。緩やかな勾配の坂です。(3%:4m/150m)坂の途中には南へ上る 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅴ) が、坂下からは同じく南へ上る 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅳ) があります。 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅱ)

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 赤羽西6丁目24,29,28番地と25,26,27番地の間にある坂です。北から南へ上る坂です。緩やかな勾配の坂です。(3%:4m/130m)坂下は 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅰ) の途中になっています。 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅰ)

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 赤羽西6丁目24,25,21番地と23,22番地の間にある坂です。東から西へ上る坂です。緩やかな勾配の坂です。(3%:5m/160m)坂の途中には 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅱ) の坂下が、この坂の坂下は 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅲ ) の坂下、 無名坂(赤羽西6丁目の坂Ⅳ) と同じです。 《撮影日:2009年2月8日》

富士見(ふじみ)坂【赤羽西6丁目】

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:眺望・景観(富士山)]   この坂を 富士見坂 という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る。此景望又いうべき様なし」と記されている。 かつてこの近くに周囲500余メートルといわれる大塚古墳(円墳)があったが、いまはみられない。 桐ヶ丘1丁目11,12番地と赤羽西6丁目15,16番地の間を西から東に上る坂です。緩やかな勾配の都道の標識が設置された坂です。(1%:2m/170m)坂上は本郷赤羽線(都道455号線)の善徳寺前交差点になります。 《撮影日:2009年2月8日》 《撮影日:2009年4月1 6日》 <坂の途中で>👀📸 善徳寺 馬込家の墓(坂の南側) 大恩寺の仁王像(坂下の南側)

かなくさ坂

  場所:東京都北区赤羽西6丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:自然現象] この坂は、島下公園(赤羽西6-10-12)の北側を東の方へ登る坂です。名前の由来については定かではありませんが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤錆色に染まったことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではないかという説が知られています。 少しきつい勾配のカーブの坂です。(6%:5m/82m)坂上は本郷赤羽線(都道455号線)に出ます。 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅵ)

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 赤羽西5丁目1,2番地と赤羽西4丁目50、53番地の間を北から南へ上る坂です。坂上は 庚申坂 の途中になります。緩やかな勾配の坂です。(4%:5m/120m)並行して走る坂に 無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅴ) があります。坂下は 無名坂(赤羽台2丁目の坂) の坂下と同じです。それもあって写真のテロップが赤羽台2丁目となっておりますが、赤羽西4丁目の間違いです。 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅴ)

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 赤羽西4丁目51,52番地と50、53番地の間を北から南へ上る坂です。坂上は 庚申坂 の途中になります。緩やかな勾配の坂です。(3%:3m/89m)並行して走る坂に 無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅵ) があります。 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(赤羽西4丁目の階段坂)

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 市場坂 の坂上付近から東へ降りる階段坂です。赤羽西4丁目35番地と36番地の間にあります。 《撮影日:2008年8月15日》

無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅱ)

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 赤羽西4丁目44番地と45番地の間の坂です。 法安寺坂 の西側を北から南へ上る坂です。坂上は三岩通りとなっています。少しきつい勾配のある坂です。( 9% :7m/80m) 《撮影日:2008年8月15日》

三日月(みかづき)坂[道灌坂]

  場所:東京都北区赤羽西2丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(店・茶屋・料亭:三日月茶屋)] 道潅湯から東南に登り 中坂 へでる坂。 道潅湯のあたりに、大正3年(1914)帝国火工品製作所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂という。工場へ往来する馬車などでにぎわったが、大正4年5月に工場は爆発事故で消失してしまった。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができ、坂名はこれに由来する。また、道潅湯が開業したことから 道潅坂 とも呼ばれいてる。 赤羽西4丁目3,4番地と24,25番地の間の坂です。北西から南東に上る結構きつい勾配の短い坂となっています。( 13% :8m/60m)写真でも滑り止めが施されているのがわかります。坂上は説明にもある通り 中坂 の坂上と同じです。 《撮影日:2008年8月15日》

法安寺(ほうあんじ)坂

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:法安寺)]   赤羽西保育園・法安寺の西を経て第三岩淵小学校の北東角へ登る坂。坂名は法安寺にちなんでいる。昭和三年頃法安寺は法安堂といい、堂下には三つの泉があった。周辺には願行の太鼓が鳴り響き西側の 庚申坂 より先へ草原が広がっていたという。 市場坂 の西を並行する形で北から南へ上る坂です。赤羽西4丁目42,43番地と47,44番地の間にあります。坂名由来の法安寺は坂の中程にあります。少し勾配のきつい坂です。( 6% :12m/200m) 《撮影日:2008年8月15日》

弁天(べんてん)坂【赤羽西4丁目】

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 【標識なし】[由来分類:施設(神社仏閣:亀ヶ池弁財天)] 北区HP(飛鳥山博物館)によると 赤羽西四丁目の南の台地に登る坂。 亀ヶ池の跡地には、現在商店が立ち並び道路も整備され、弁財天が祀られている。 弁天祠に近い坂なのでこの名がつけられた。 とあります。この弁天祠に由来する坂として 弁天池の坂 もあります。こちらの方がより祠に近いのですが。赤羽西4丁目23,4,5番地と22,21番地の間を北から南へ上る坂です。写真でもわかりますが、滑り止めが施された相当きつい勾配がある坂です。( 15% :12m/80m) あるきたくなるまち東京都北区(北区地域振興部観光振興担当)に亀ヶ池弁天が記載されています。引用させて頂き紹介させてもらうと、 昔、赤羽駅の西口一帯にあった大きな池があり、亀ヶ池と呼ばれていました。 この池は稲付城(今の静勝寺)西側の、天然の防御でした。 昼なお薄暗く、一角のほこらには無数の亀がすんでいました。特に大亀は甲の周囲8.9尺もあり、 小さな子供はその上に乗って戯れたが、大人が行けば隠れてけっして出てこなかったといわれています。 また、伝説では、池には一対の大蛇が住んでいたとも言われています。 現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれていて、中の島に祀られている祠は かつて亀ヶ池の一角にあった物で、中には弁天像が納められています。 この弁財天では願いが叶ったらお礼の印に細い絵馬型の御札をかけることになっているそうです。 弁天池の坂はかなり通っていたはずなのに、一枚の写真も撮っていないとは・・・。 《撮影日:2008年8月15日》

市場(いちば)坂

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 【標識なし】 [由来分類: 不明 ] 蛇坂の標識には この坂は蛇のようにくねっているところから名がついた。 蛇坂とその西にある 「 市場坂 」の谷を北谷といった。谷の奥にわき水があり, 釣堀があった。夏の夕暮れどきこの谷をうめつくす程ヤンマが飛び交い, この坂で とんぼ採りをする子供達でにぎわったという。 市場坂 の存在は書かれていますが、名前の由来等はわかりませんでした。 蛇坂 と法安寺坂の間にある坂で、北から南へ上る坂です。赤羽西4丁目39,36番地と42番地の間にある坂です。少しきつい勾配のある真っすぐな坂です。( 6% :8m/130m) 《撮影日:2008年8月15日》

蛇(へび)坂【赤羽西4丁目】

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:形状・地形(くねり)]  この坂は蛇のようにくねっているところから名がついた。 蛇坂 とその西にある 市場坂 の谷を北谷といった。谷の奥にわき水があり, 釣堀があった。夏の夕暮れどきこの谷をうめつくす程ヤンマが飛び交い, この坂でとんぼ採りをする子供達でにぎわったという。 市場坂 の東側を北から南へ上る坂です。赤羽西4丁目30番地と38番地の間に坂下があり、上の写真でもわかりますが名前の通りくねりながら上って行きます。少しきつい勾配のある坂です。( 6% :13m/220m) 《撮影日:2008月15日》

庚申(こうしん)坂【赤羽西4丁目】

  場所:東京都北区赤羽西4丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(神社仏閣)]  (参考)「法安寺坂標識より」:赤羽西保育園・法安寺の西を経て第三岩淵小学校の北東角へ登る坂。坂名は法安寺にちなんでいる。昭和三年頃法安寺は法安堂といい、堂下には三つの泉があった。周辺には願行の太鼓が鳴り響き西側の「 庚申坂 」より先へ草原が広がっていたという。 とあります。 また北区HP(飛鳥山博物館)には、 弁天通りが西が丘へ力ーブして登る坂で、坂上の字庚(あざかのえ)塚へ通ずるところからこの名が生れたという。 とあります。赤羽西4丁目50,51番地と41,48,49番地の間を東から南西に上ります。緩やかな勾配の坂です。(5%:9m/180m)坂の中程が 無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅴ) および 無名坂(赤羽西4丁目の坂Ⅵ) の坂上となっています。 《撮影日:2008年8月15日》

無名坂(法真寺横の坂)【赤羽西3丁目】 

  場所:東京都北区赤羽西3丁目 稲付香取神社を坂下に日蓮宗稲付山法真寺の南側を東から西へ上る坂です。緩やかな勾配の坂です。(4%:12m/280m) 《撮影日:2008年8月15日》

鳳生寺(ほうしょうじ)坂[六右衛門坂]

  場所:東京都北区赤羽西3丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:鳳生寺)]   この坂は、鳳生寺門前から西へ上る坂で、坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から 六右衛門坂 とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)に向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。 曹洞宗岩淵山鳳生寺の北側を東側から西側に上る坂です。左の写真が鳳生寺の山門とその前に立つ坂の標識です。少しきつい勾配のある坂で滑り止めが施されています。(6%:9m/140m) 《撮影日:2008年8月15日》