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4月, 2020の投稿を表示しています

新(しん)坂[外記坂]【本郷1丁目】

場所:東京都文京区本郷1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:施設(屋敷・邸宅)]  区内には、 新坂 と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「 壱岐坂 の北にありて小石川春日町に下るを 新坂 といふ 」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七坂)いよると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、 ゲキサカ とある 。 新坂 というが 、江戸時代からあった古い坂である。  この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ 。 今は「 新壱岐坂 の北にありて・・」となるのでしょう。 階段との併用となっていますが、手摺もあり相当きつい勾配の坂となっています。( 21% :4m/19m) 《撮影日:2008年10月12日》

新壱岐(しんいき)坂

場所:東京都文京区本郷1丁目 【 標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)小笠原壱岐守]   大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しくひらかれた昭和の坂である。  この坂の中ほどにある東洋女子短期大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「 壱岐(殿)坂 」という 壱岐坂 の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。  ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を“ 新壱岐坂 ”とした。現在は、区内の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった 壱岐(殿)坂 の名は忘れられようとしている。 本郷通の壱岐坂上交差点からはじまる壱岐坂通りの坂です。 白山通りへ下る坂で、緩やかな勾配の大きな道路の坂です。(4%:13m/350m) 《撮影日:2008年10月12日》

旧東富(きゅうひがしとみ)坂[鳶坂][富坂][飛び坂]

場所:東京都文京区本郷1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:動物(とび)]   東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので「 鳶坂 」といい、いつの頃からか、「 富坂 」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。  また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから 「 飛び坂 ともいわれた 。明治41年、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の 東富坂 ( 真砂坂 ) が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。 その昔は 旧東富坂 がメインストリートであったことが標識にも書かれています。 このあたりは、 壱岐坂 にしてもこの 旧東富坂 にしても路面電車や自動車道路等が整備されてから否応なしに”旧”とよばれたり”新”にメイン通りを奪われたりしています。😢 少しきつい勾配のある坂です。( 9% :14m/150m) 《撮影日:2008年10月12日》

お茶の水(おちゃのみず)坂

場所:東京都文京区本郷1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:所在施設(湧き水:お茶の水)]   この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。  『御府内備考』によれば「御茶ノ水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶ノ水に召し上げられしと・・・」とある。  この坂は神田川(仙台掘)に沿って、お茶の水の上の坂で「 お茶の水坂 」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。     お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ      寒む夜はふけてわれは行くなり             島木赤彦(1876-1926) 水道橋から神田川沿いに外堀通りを東に上る坂です。 勾配は緩やかな坂です。(4%:11m/290m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2009年4月2日》 <坂の途中で>👀📸 元町公園 2009年訪問時には桜が満開でした 坂の起点の水道橋 神田上水掛樋跡の石標

壱岐(いき)坂

場所:東京都文京区本郷1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)彦坂壱岐守屋敷]   「 壱岐坂 は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)のほんごうの図を見るに、此の坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)  御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話) 都営三田線水道橋駅A6出口を坂下に、東に上る坂です。 壱岐坂交番前交差点(壱岐坂通り)で 新壱岐坂 と交差します。 新壱岐坂が大きな壱岐坂通りとなっており、壱岐坂上や壱岐坂通り、白山通りの壱岐坂下の名前がすべて 新壱岐坂 を表すものとなっているようです。 昔はこの坂がメインストリートだったのでしょう。 勾配は緩やかな坂です。(4%:13m/300m) 《撮影日:2008年10月12日》

無名坂(白山通り横の坂)【白山5丁目】

場所:東京都文京区白山5丁目 特別養護老人ホーム「文京白山の郷」の横を通って、白山通りから北の中山道へ上る坂です。 場所は白山5丁目14番地と16番地の間ん位なります。 緩やかな勾配の坂です。(3%:5m/176m) 《撮影日:2008年11月2日》

暗闇(くらやみ)坂【白山5丁目】

場所:東京都文京区白山5丁目 【標識なし】 [由来分類:所在位置(くらがり)] 京華女子中学校・高等学校の東側を北に向かって上がる坂道です。 昔は今のように開けたところではなく淋しい場所だったのでしょう。 勾配は 結構きつい 坂です。( 12% :7m/58m) 《2008年11月2日》

逸見(へんみ)坂

場所:東京都文京区白山4丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)]   「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、 逸見坂 といふ、旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』)  武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、 逸見坂 はその北のはずれにあたる。  町名の由来は、白山御殿(後に五代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。  御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。  坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。 白山通りの西に位置し、 蓮華寺坂 の北側を走る坂です。 蓮華寺坂 同様に西から東へ下る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 8% :7m/83m) 《撮影日:2008年11月2日》

無名坂(白山2丁目の坂)

場所:東京都文京区白山2丁目 白山通りの白山2丁目交差点の西側を南から北へ上る坂です。 白山2丁目1番地と2,3番地の間を走る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :8m/130m) 《撮影日:2008年11月2日》

蓮華寺(れんげじ)坂

場所:東京都文京区白山2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)蓮華寺]   「蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいえり。白山御殿跡より指ヶ谷町へ出る坂なり」と改撰江戸志にある。  蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという。  なお、この坂道は小石川植物園脇の 御殿坂 へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。 御殿坂 の坂上を東に進むと 蓮華寺坂 の坂上に出ます。 蓮華寺の北側を東の白山下交差点方面に下る坂です。 緩やかな勾配の坂です。(5%:9m/190m) 《撮影日:2008年11月2日》

御殿(ごてん)坂[大坂][富士見坂]【白山2丁目】

場所:東京都文京区白山2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)白山御殿)]  「 御殿坂 は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは 大坂 といひしや」(『改撰江戸志』)  「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、 富士見坂 ともいえり」(『江戸志』)  白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。  綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。  明治になってからは東京大学の付属植物園となった。   植物園の松の花さへさくものを    離れてひとり棲むよみやこに  若山牧水(1885-1928) 小石川植物園の南東の面に沿って走る坂です。 南西から北東に上る坂で、少しきつい勾配があります。( 8% :15m/190m) 折角の標識がスプレーで汚されていて本当に残念でした。 《撮影日:2008年11月2日》 <寄り道で見つけた>👀📸 小石川植物園は東京大学大学院理学系附属植物園とのことです

伊賀(いが)坂

場所:東京都文京区白山2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:施設(屋敷・邸宅)]  白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。  伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という二つの説がある。  『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。 本当にくねくねした坂です。また、坂上が多数に分岐していて忍者がどちらに逃げ込んでもわからないであろうと思いました。(昔からそうなっていたのかは定かではありませんが。) 区立指ケ谷小学校の北側を東から西に上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 8% :5m/60m) 忍者といえば、 甲賀坂 は千代田区神田駿河台1丁目にあります。 《撮影日:2009年5月21日》

薬師(やくし)坂[浄雲寺坂][白山坂]

場所:東京都文京区白山1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:施設(神社仏閣)薬師堂)]   「妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に 薬師坂 と相唱申候」(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、 薬師坂 と 名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、 浄雲寺坂 とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、 白山坂 ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。  『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。  このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。 都営三田線白山駅を坂下として中山道の白山上側に上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :8m/130m) 《撮影日:2009年5月21日》

無名坂(薬師坂横の坂)【白山1丁目】

場所:東京都文京区白山1丁目 坂の奥に見えるのが白山神社です。白山神社の参道でしょうね。 この坂は、都営三田線白山駅の出口(A3)を西に向かう坂で、 白山1丁目31,33番地と35番地の間を走る坂です。 坂道を横切っているのは、多分東洋大学白山キャンパスに通う学生さんたちでしょう。 勾配は全体的に緩やかで白山神社に向かって上る坂です。(4%:4m/95m) 《撮影日:2009年5月21日》 <寄り道で見つけた>👀📸 白山神社 毎年6月頃、白山神社の境内等で 「文京あじさい祭り」が開かれます。 創開は古く、天暦年間( 947 ~ 957 )に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。後に元和年間( 1615 ~ 1624 )に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、その後五代将軍職につく前の館林候綱吉の屋敷の造営のため明暦元年 (1655) 現在地に再度移った。この縁で綱吉と生母桂昌院の厚い帰依を受けた。(文京区HPより)

中(なか)坂【白山1丁目】

場所:東京都文京区白山1丁目 【標識なし 】 [由来分類:maybe所在位置(中間) ]    標識がないので詳しいことは不明です。 浄心寺坂 と 胸突坂 の間にあることから呼ばれたとも。 写真でもわかるように坂上からみると坂下は覗き込むような感じであり、急傾斜の部類の坂です。( 17% :5m/30m) 《撮影日:2009年5月21日》

浄心寺(じょうしんじ)坂[於七坂]

場所:東京都文京区白山1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:浄心寺)]   「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。 浄心寺坂 といふ」(新撰東京名所図会)  浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺 があることから 「 於七坂 」 の 別名もある。 都営三田線白山駅の南側にある坂です。 白山一丁目側を坂上として西の白山下に下る坂です。 結構きつい勾配があります。( 12% : 7m/60m) 浄心寺とは少し離れているのですが・・。 《撮影日:2008年11月2日》 《撮影日:2009年5月21日》 <坂の途中で>👀📸 円乗寺 八百屋お七の墓所があるお寺 「於七坂」の由来となった

根津裏門(ねづうらもん)坂

場所:東京都文京区千駄木2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)根津神社]   根津神社の裏門前を、根津の谷から本郷通りに上る坂道である。  根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。  坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。(家は現在「明治村」に移築) 根津神社の北側を西から東の千駄木2丁目交差点へ下る坂です。 緩やかな勾配の坂です。(3%:5m/150m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2011年2月13日》 <坂の途中で>👀📸     根津神社は「 根津権現 」とも呼ばれている。日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一つに数えられている。境内はつつじの名所として知られ、近隣には森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これら文豪に因んだ旧跡も残されている。社殿は1705年の創建で、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉による普請とされ、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作ともされている。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。近代文学の諸作品にも描かれてさらに知られるようになった。(先失 念HPより引用)