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3月, 2020の投稿を表示しています

切支丹(きりしたん)坂

場所:東京都文京区小日向1丁目 【標識なし】 [由来分類:maybe施設(屋敷・邸宅)切支丹屋敷] 切支丹屋敷の南側を東京メトロ丸の内線のガード方面に西から東へ下る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 9% :7m/79m) ガードを潜った先に 庚申坂 があります。 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2009年7月4日》

荒木(あらき)坂

場所:東京都文京区小日向1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)荒木志摩守]   称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。  『 江戸砂子 』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅弐軒弐尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。  神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。 標識の通り称名寺の東側を南から北に上がる坂です。 坂の勾配は結構きついものがあります。( 12% :9m/75m) 坂より西側はお寺がたくさんあるところで、称名寺からはじまって本法寺、日輪寺、善仁寺と続きます。文京区自体たくさんの寺がある地域です。(明暦の大火の後、各地区に火除地が設けられて、それぞれの地域あった寺が江戸の郊外だった地に集まってきたということらしいです。その一つが文京区だとか) 《撮影日:2009年7月4日》

無名坂(小石川5丁目の坂Ⅰ)

場所:東京都文京区小石川5丁目 湯立坂 の坂下付近の交差点を坂下として南に上る坂です。 小石川5丁目19番地と20番地の間にあります。 少しきつい勾配のある坂です。( 8% :10m/120m) 《撮影日:2008年10月12日》

無名坂(小石川5丁目の坂Ⅱ)

場所:東京都文京区小石川5丁目 団平坂 の坂下が、この坂の坂上となります。 小石川5丁目12番地と13番地の間を走る坂です。 東北の方に緩やかな勾配で上っていきます。(5%:4m/81m) 《撮影日:2008年11月2日》

湯立(ゆだて)坂

場所:東京都文京区小石川5丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:所在位置(川へ)]   「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に此所の氏子ども此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」(江戸志)  武蔵風土記には、このあたりのことを簸川原とあり、アユ、ウナギそしてセリなどのとれる所としている。事実小石河(千川とも後年云う)が流れていた。   我方を 思ひゆかめて 小石河    いづこを瀬とか こひ渡るらむ     道興准后「廻国雑記」(文明18年(1484)6月より3月までの北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。 筑波大学東京キャンパス(大塚3丁目)の南側を走る坂です。 南西から北東へ下る坂で、緩やかな勾配の坂です。(5%:10m/200m) 《撮影日:2008年10月12日》

団平(だんぺい)坂

場所:東京都文京区小石川5丁目 【 標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名(団平)]  「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗 団平坂 と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者 舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。  団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。  何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。  この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。   椽先のまくら出させて   ひさしぶりに、   ゆふべの空にしたしめるかな          石川啄木(直筆ノート最後から2首目) 竹早小学校(竹早国民学校)跡の南側を西南から東方へ下る坂です。 まだまだ下りが続き、折角なので別途 無名坂(小石川5丁目の坂Ⅱ) として掲載しました。 少し勾配のきつい坂です。( 7 % :4m/61m) 《撮影日:2008年11月2日》

吹上(ふきあげ)坂[禿坂]

場所:東京都文京区小石川4丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:旧地名(吹上村)]   このあたりをかって吹上村といった。この土地から名づけられたと思われる。   吹上坂 は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。なお、別 名「 禿坂 」 の禿は河童に通じ、都内六ヶ所にあるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。  この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。  この水田や川は、鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。    雑然と鷺は群れつつおのがじし     あなやるせなき姿なりけり  古泉千樫(1886~1927) 播磨坂 の南側をほぼ並行して走る坂です。 坂下は 播磨坂 と同場所(植物園前)です。 緩やかな勾配の大きな坂です。(4%:15m/350m) 《撮影日:2008年11月2日》

播磨(はりま)坂

場所:東京都文京区小石川4丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)松平播磨守]   この道路は、終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。  かつて、このあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は 播磨坂 とよんでいる。  昭和35年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって、「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。  昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。 春日通りの小石川5丁目交差点から西北に下る坂です。 中央に分離帯がある大きな道幅の坂です。 緩やかな勾配の坂です。(4%:17m/450m) 《撮影日:2008年11月2日》 <寄り道で見つけた>👀📸            極楽水                  極楽水と呼ばれるところで、もともと、さきほどの宗慶寺の境内だったところで、 江戸を代表する名水だったそうです。湧き水量は豊富なだったそうですが、今 では想像はできない状態になっています。現在は、上の写真でもわかるようにマン ションの敷地内にありますが、誰もが自由に入ることができるようになっています。  播磨坂さくら並木案内図 播磨坂は環状3号線ということで道幅が非常に広く、中央分離帯があります。 そこには遊歩道や小さい川が作られていたりしていて、まさに公園の様相を呈しています 旧町名案内(旧久堅町)

三百(さんびゃく)坂[三貊坂]

場所:東京都文京区小石川3丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:抽象的な数字(お金)]   『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。  主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「 三貊坂 」を「 三百坂 」と唱え、余人もこの坂名を通称とするようになった。 都立竹早高校の横を北から南に上る坂です。 緩やかな勾配の坂です。(3%:6m/180m) 《撮影日:2008年10月12日》

六角(ろっかく)坂

場所:東京都文京区小石川2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:施設(屋敷・邸宅)六角氏]   「 六角坂 は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいえり」(『改撰江戸志』)とある。  『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。  餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。 堀坂 と同じ道の北側に坂上を持ち、いったん北に上ってから東に折れる坂です。 その北側には 善光寺坂 が並走しています 。 少しきつい勾配のある坂です。( 9% :5m/57m) 《撮影日:2008年11月2日》 《撮影日:2011年1月4日》

堀(ほり)坂[宮内坂][源三坂]

場所:東京都文京区小石川2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)堀内蔵助]   「 堀坂 は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に" ほりさか "と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来 宮内坂 又は 源三坂 と唱へたるものにて。 堀坂 といへるは 其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)  この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「 宮内坂 」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「 源三坂 」ともいわれた。「 堀坂 」という名称は、文政(1818~30) の頃、 堀家が坂の修理をして「 ほりさか 」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。  坂下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。 春日通りを挟んで中央大学後楽園キャンパスの北側に位置する坂です。 西を坂上として東に下る坂で、少しきつい勾配のある坂です。( 8% :10m/130m)源覚寺は坂下の北側に位置する寺です。 《撮影日:2008年11月2日》 《撮影日:2011年1月4日》 <寄り道で見つけた>👀📸 こんにゃくえんま 源覚寺 平成七年から「小石川七福神めぐり」という新しい七福神めぐりが始まり、この源覚寺も入っているそうです。

善光寺(ぜんこうじ)坂【小石川2丁目】

場所:東京都文京区小石川2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:善光寺)]   坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。   “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)  また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。 春日通りを挟んで中央大学後楽園キャンパスの北側に位置する坂です。 坂の北には坂名となった善光寺があります。 緩やかな勾配の坂です。(5%:12m/120m) 《撮影日:2008年11月2日》 《撮影日:2011年1月4日》

無名坂(春日2丁目の坂)

場所:東京都文京区春日2丁目 春日通りの南側に位置し、北を坂上として南へ下る坂です。 春日2丁目19,20番地と23番地の間にある坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 7% :4m/58m) 《撮影日:2011年1月4日》 <坂の途中で>👀📸 永井荷風生育地を示す案内板

富(とみ)坂[飛坂]

場所:東京都文京区春日1丁目 【 標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:動物(とび)]  「 とび坂 は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし待ちより春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故 とび坂 と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、 鳶坂 、転じて 富坂 となった。  また、春日町交差点の他に(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため 飛坂 ともいわれた。そして、伝通院の方を 西富坂 、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。  この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。   「 富坂 の冬木の上の星月夜      いたくふけたりわれのかへりは」       島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926) 東京メトロ南北線・丸の内線(後楽園駅)付近を坂下として西へ上る春日通りの大きな坂です。 ゆったりとした幅の広い坂です。(4%:14m/350m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2011年1月4日》 <坂の途中で>👀📸 富坂の標識と旧小石川旧町名案内 春日局の銅像 磯川公園 中央大学後楽園キャンパス(理工学部)