場所:東京都文京区小石川5丁目
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名(団平)]
「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗
団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者 舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
椽先のまくら出させて
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな
石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
竹早小学校(竹早国民学校)跡の南側を西南から東方へ下る坂です。まだまだ下りが続き、折角なので別途無名坂(小石川5丁目の坂Ⅱ)として掲載しました。少し勾配のきつい坂です。(7%:4m/61m)団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
椽先のまくら出させて
ひさしぶりに、
ゆふべの空にしたしめるかな
石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
《撮影日:2008年11月2日》
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