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小次兵衛久保(こじべえくぼ)坂

 場所:東京都板橋区成増2丁目 【標識なし】  [由来分類:名(人名)]   川越街道(国道254号)の 成増坂 を上がるとすぐに下り坂になる。この坂を 小次兵衛久保坂 と呼ばれた。  小次兵衛は人の名で、『いたばしの昔ばなし』に「橋を作ってくれた怪人小次兵衛」に語られている。街道を荒らした盗人であったが、改心して窪を流れる小川に立派な橋をかけて旅人の難儀を救ったという。  ここから上り坂になり 帳元の坂 になる。「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会) より引用 川越街道を走る三つの坂(北から 成増坂 ・ 小次兵衛久保坂 ・ 帳元の坂 )の真ん中の坂です。今では幅の広い緩やかな坂となっています。坂下が 帳元の坂 の坂下です。(2%:5m/210m) 《撮影日:2010年5月5日》

平次(へいじ)坂 [へび坂]

  場所:東京都板橋区志村2丁目 【標識なし】 [由来分類:人名] いつの頃か平次という人が開いたと言います。台地の上と下を結ぶ坂道で 清水坂 を回らなくとも近道なので、農家の人々が利用しました。急勾配に加え崖から清水が道いっぱいに流れてくるので歩くのに大変でした。この様なところなので蛇が多く平次が転訛して「 へび坂 」と呼ばれていました。 『いたばしの地名』より引用 いつの頃か平次という人が開いたと伝えられている。別名を「 へび坂 」と呼ぶ。急勾配に加えて崖から清水が赤土の道いっぱいに流れ出しているので滑り易く、雨降りの時などは特にひどく草や木に摑まらないと登れなかった。農家の人たちが坂下の田畑に通うには、清水坂を回らず、この近道を利用した。  「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用 延命寺地蔵堂の西を南から北へ下る坂です。結構きつい勾配のある坂で写真でもわかりますが滑り止めが施されています。( 10% :7m/70m) 《撮影日:2009年2月8日》

大炊介(おおいのすけ)坂[宮坂][暗闇坂]

  場所:東京都北区西ヶ原1丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:人名(保坂大炊介)]   坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで 大炊介坂 と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで 宮坂 とも、樹木に覆われていたので 暗闇坂 とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。 旧古河庭園の東側を南から北へ上る坂です。緩やかな勾配の大きな坂です。(4%:8m/220m)本郷通りに都設置の立派な標識が建っています。

野間(のま)坂

  場所:東京都北区赤羽西3丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名&施設(屋敷・邸宅)]  この坂道の名前は、 大正・昭和前期に活躍した出版事業家で、講談社の創立者でもある野間清治氏(1878~1938)の旧別邸前の坂だったところからから由来しています。現在、野間氏の旧別邸跡地は北区立稲付公園となっており、区民の憩いの場として親しまれています。 北区立稲付公園の南側を東北から南西に走る坂です。赤羽西3丁目18番地と19番地の間にあります。緩やかな勾配の坂です。(5%:10m/190m) 《撮影日:2008年8月15日》

あさみ坂

  場所:東京都豊島区南大塚1丁目 【標識なし】[由来分類:maybe人名] JR巣鴨駅から山手線の南側を西方(JR大塚駅方面)に進み、突き当りを左に折れさらに左折して真っすぐ進むと道は急な下り坂になります。ここが あさみ坂 です。 坂名は大塚三業(三業とは料理屋・待合・芸者屋の三種の営業)の発展に寄与した人の名から・・『「江戸の坂」(山野勝氏著)より引用』とあります。 東側を坂上として南大塚1丁目33,34番地と36,37番地の間を走る坂です。 結構きつい勾配のある坂です。( 11% :7m/64m) 《撮影日:2009年7月4日》

さいとう坂

  場所:東京都豊島区南大塚1丁目 【標識(石標のみ) 】 [由来分類:人名]  昭和初期には白木屋デパートがあり、大塚は都内でも屈指の繁華街として賑わっていました。その頃の大塚三業通りは、花街として繁栄。今も、名残りを思わせる小粋な料亭や小料理屋があります。近辺には静かな坂道もいくつかあり、そのうちのひとつ、 さいとう坂 は、坂下に石碑があります。 (当時(2009年)の豊島区HP 大塚三業の説明より ) JR大塚駅方面からだと、大塚三業通りを左折し区立巣鴨小学校の横を入りしばらく進むとさいとう坂の坂下に出会います。南大塚1丁目10番地と25番地の間を北東方面に上ります。坂上は文京区千石になります。 少しきつい勾配のある坂です。( 9% :7m/82m) 《撮影日:2009年7月4日》

有松(ありまつ)坂

  場所:東京都豊島区駒込6丁目 【標識なし】 [由来分類:maybe 人名] 染井霊園の西の駒込6丁目と7丁目の間にある坂で北から南に上ります。 由来は不明でしたが、多くの方が”住んでいた人名由来”と綴っておられます。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :8m/140m) 《撮影日:2008年11月2日》

南郭(なんかく)坂[富士見坂]

  場所:東京都渋谷区東2丁目 【標識(渋谷区教育委員会設置)の説明】    [由来分類:人名(服部南郭)] (服部南郭別邸跡説明板より)  服部南郭は、江戸中期の儒学者。漢詩人で幼名を勘助、のち元喬といい字を子遷、書斎を芙キョ(※)舘と称しました。  この場所は、南郭の別邸があったところで、邸前にある坂道は、昔から 南郭坂 あるいは 富士見坂 と呼ばれてきました。  南郭は、天和三年(一六八三)に京都に生まれ、十六歳の時に和歌と絵画をもって江戸の柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人となって、古文辞学と詩を学びました。三十四歳の時、柳沢家を辞し、ここの別邸で塾を開いて在野の人となり、もっぱら漢詩文に親しみ、後継者の育成に努めました。宝暦九年(一七五九)没。享年七十七歳。  著書に「南郭文集」「大東世語」「南郭先生燈下書」などがあります。 この坂は明治通り東3丁目交差点付近を坂下にして東へ上る坂です。 坂上は山種美術館前交差点にあたります。 山種美術館といえば、1966年中央区日本橋兜町に開館し、1998年千代田区三番町に仮移転し2009年渋谷区広尾に新規開館した美術館です。 三番町時代の仮移転は千代田区の坂 無名坂(三番町の坂Ⅰ) にも掲載しております。 緩やかな勾配の長い坂です。(4%:14m/400m 《撮影日:2009年1月18日》

道玄(どうげん)坂

  場所:東京都渋谷区道玄坂1、2丁目 【標識(渋谷区教育委員会設置)の説明】  [由来分類:人名( 大和田太郎道玄) or 所在施設(道玄庵)]  江戸時代の 道玄坂 は、大山街道の一部として多くの人が往来していました。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷街道に入って 松見坂 までも広く呼んだものでした。 江戸中期頃より道玄坂とは専らこの坂を指すようになったのです。 渋谷の駅前から南西方向の南平台まで走る坂です。 仕事の関係で行っていた場所なのでその時の風景は今でも残っております。 渋谷も再開発が進み坂自体は残っても景色は一変しているのでしょう。 緩やかな勾配が続く坂です。(3%:18m/600m) 《撮影日:2009年1月18日》 《撮影日:2010年1月3日》

弥之助(やのすけ)坂[シリモチ坂]

  場所:東京都渋谷区上原1丁目 【標識なし】 [由来分類:人名(池上弥之助)] 上原1丁目の高台40番と41番との間から、小田急線の踏切に向かって下る坂道をいう。往古、富ヶ谷の人・池上弥之助(享保年中の人、享保元年=1716年)の所有地前であったことから名づけられた。地元の吉田国太郎氏の談によると、土地の人々は、この坂を シリモチ坂 とも呼んでいたという。坂道が粘土質のため、雨が降ると通行人が滑ってころび、シリモチをつくことが多かったことから、いつとはなしに、シリモチ坂が通称となった。むかしはこの坂下に野菜などを洗う小川の水溜りがあり、坂道でころんだ人が、よくここで尻を洗っていたということである。  (渋谷の坂HPより引用) 北に下って更に折れて西に下る坂です。 結構きつい勾配のある坂です。( 11% :12m/110m) 《撮影日:2009年7月19日》

臼田(うすだ)坂

場所:東京都大田区南馬込4丁目 【標識(大田区設置)の説明】 [由来分類:人名(臼田)or 居住者] 坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起ったといわれている。 臼田神社から南に下る坂です。 全体的には少しきつい勾配の坂ですが、滑り止めが施された場所もあり難儀な坂のように思えます。( 6% :18m/300m) 《撮影日:2009年9月20日》

右近(うこん)坂

場所:東京都大田区南馬込4丁目 【標識(大田区設置)の説明】 [由来分類:人名(右近)or 不明] この坂名の由来については、近くに「右近」という者、あるいは「おこん」という女性が住んでいたからとか、いろいろな伝説があり、明らかでない。 環七通り側を坂下にしてほぼ西へ上る坂です。 大田区立南馬込文化センターの南を走る坂で、少しきつい勾配があります。( 7% :14m/190m) 《撮影日:2009年9月20日》

どぜむ坂

場所:東京都目黒区碑文谷4丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣) or 人名]   坂名の”どぜむ”は堂前(どうぜん)の意味で、昔このあたりの道端にお堂があったことから、”どぜむ”と呼ぶようになったといわれる。  また、この土地の”土左衛門”なる人がひらいた坂なので” どざえもん坂 ”、それがなまって、” どぜも坂 ”” どぜむ坂 ”と呼ばれるようになったともいわれている。 環七通りを挟んで 柿の木坂 と対峙する坂です。 東北側を坂下に、環七通りの柿の木坂陸橋方面に向かって上る目黒通りの坂です。 緩やかな勾配の坂です。(3%:7m/220m) 《撮影日:2010年1月3日》

小川(おがわ)坂

場所:東京都目黒区東山1丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名、形状・地形(田んぼ)]   かつて、この一帯を「小川」といい、坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」と呼んだ。この辺りの旧家小川家が地名の由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じる道として中世の頃開かれた鎌倉道であった。 区立烏森小学校の北西側を北東から南西に上る坂です。 無名坂(東山1丁目の坂) と並行に走ります。 緩やかな勾配の坂です。(4%:13m/350m) 《撮影日:2010年1月3日》

権之助(ごんのすけ)坂【下目黒1丁目】

場所:東京都目黒区下目黒1丁目 【標識なし】 [由来分類:人名] 江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。 馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。 村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「 権之助坂 」と呼ぶようになったといわれている。 また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。 昔の道路は、江戸市中から白金を通り、 行人坂 をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の 権之助坂 を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。(目黒区HPより引用) 確かに南側を流れる 行人坂 の勾配は10%と急で、この坂を新たに開いたというのも頷けます。 この坂の勾配は緩やかとなっています。(5%:18m/350m) 《撮影日:2010年1月3日》 《撮影日:2011年6月1日》

鉄飛(てっぴ)坂

場所:東京都目黒区大岡山1丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:自然現象 or 人名 or 職業]   「てっぴ」とは山頂、てっぺんを意味し、それが坂名になったともいわれるが他にもポルトガル人テッピョウスという人が住んでいたからや、鉄砲鍛冶がいたからなど諸説がある。 帝釈堂あたりを坂上として、西の目黒川方面に下る坂です。(平町2丁目19番地と20番地の南側) 少しきつい勾配のある坂です。( 8% :11m/140m) 《撮影日:2010年1月3日》 <坂の途中で>👀📸 鉄飛坂庚申塔群が収められている帝釈堂 鉄飛坂の坂上にあります

上村(かみむら)坂

場所:東京都目黒区青葉台1丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名]   上村坂 という名前の由来は、明治時代の軍人で海軍大将・男爵にまですすんだ上村彦之丞(かみむらひこのじょう)の邸宅が、この坂の上にあったためといわれている。 旧山手通りの都立第一商高交差点から南へ下る坂です。(青葉台1丁目の4番地と5番地の間) 結構きつい勾配の坂で、滑り止めが施されています。( 10% :20m/200m) 《撮影日:2010年1月3日》 <坂の途中で>👀📸 坂上にあるエジプト大使館 スフィンクスなどのモニュメントが目を引きます。

ゼームス坂[浅間坂]

場所:東京都品川区南品川6丁目 【標識(品川区教育委員会設置)の説明 】 [由来分類:人名(J.M.ゼームス)]  もとは 浅間坂 と呼 ばれ、かなりの急な坂でした。片側は切り落としになっていて、崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたそうです。  明治時代、この坂の途中に英国人J・M・ゼームスが住んでいたことから、 ゼームス坂 と呼ばれるようになりました。 南品川五丁目西交差点を坂下に南西の大井町駅方面に上る坂です。 昔の急坂ではなく 、今は大きな緩やかな坂です。(2%:9m/400m) 《撮影日:2009年5月31日》 《撮影日:2010年8月1日》