場所:東京都目黒区下目黒1丁目
【標識なし】 [由来分類:人名]
江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。
馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。
村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。
また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。
昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。(目黒区HPより引用)
確かに南側を流れる行人坂の勾配は10%と急で、この坂を新たに開いたというのも頷けます。この坂の勾配は緩やかとなっています。(5%:18m/350m)
《撮影日:2010年1月3日》
《撮影日:2011年6月1日》
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