場所:東京都文京区湯島1丁目
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:植物]
地獄谷坂
とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の路を北へ、新妻恋坂まで下る坂である、そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野々遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
中山道から蔵前橋通りへ下る坂です。少しきつい勾配のある坂です。(6%:4m/67m)「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野々遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
《撮影日:2008年10月12日》
《撮影日:2011年1月4日》
コメント
コメントを投稿