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無名坂(水車公園横の坂)【四葉1丁目】

  場所:東京都板橋区四葉1丁目 徳丸槙の道を坂下にして板橋区立水車公園の西側を北から南へ上る坂です。四葉1丁目13,18番地と17、14番地の間にあります。結構きつい勾配のある坂です。( 10% :8m/82m) 《撮影日:2009年8月16日》 <坂の途中で>👀📸 板橋区立水車公園

無名坂(西台2丁目の坂Ⅲ)

  場所:東京都板橋区西台2丁目 西台2丁目11番地と12番地の間を北から南へ上る坂です。坂上のある西台田端公園の交差点では三つの坂上( 無名坂(西台2丁目の坂Ⅱ) ・ 無名坂(西台2丁目の坂Ⅳ) )が出会います。滑り止めが施された結構きつい勾配のある坂です。( 13% :15m/120m) 《撮影日:2009年8月16日》

無名坂(西台2丁目の坂Ⅱ)

  場所:東京都板橋区西台2丁目 西台2丁目12番地と13,14番地の間を北から南へ上る坂です。坂上のある西台田端公園の交差点では三つの坂上( 無名坂(西台2丁目の坂Ⅲ) ・ 無名坂(西台2丁目の坂Ⅳ)) が出会います。滑り止めが施された結構きつい勾配のある坂です。( 13% :14m/110m) 《撮影日:2009年8月16日》

伝兵衛(でんべい)坂

  場所:東京都板橋区西台1丁目 【標識なし】 [由来分類:不 明 ] 都立志村高校 (現:東京都立志村学園) (西台1-41)へ上がる急坂で、いつの頃か、誰により開かれたか定かでない。古老の語るのには、崖に足がかりをつけて登り降りするような坂であったという。 今は緩やかになり、舗装され車も通れる坂になった。「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用 北から南へ上る坂で とりげつ坂 ・ 新道の坂 とほぼ並行に走っています。坂の途中に 無名坂(西台1丁目の坂) の坂上があります。結構きつい勾配のある坂となっています 。( 11% :15m/140m) 《撮影日:2009年8月16日》

権現(ごんげん)坂【成増5丁目】

    場所:東京都板橋区成増5丁目 【標識なし 】  [由来分類:施設(神社仏閣)]  旧白子川分流の田島橋から成増の台地に上がる坂で古道の松木道が通っていた。この坂の途中に「木椎熊野大権現」(成増4-21)が祀られていたので 権現坂 と呼ばれた。この権現神社は赤塚3-9地先に移されたが今は廃社になっている。「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の 会) より引用 見てのとおり滑り止めが施された急な坂です。全体的な勾配は結構きつい坂( 12 % :15m/160m)で、特に上り始め(右の写真)ではおおよそ 16% もの勾配があります。 《撮影日:2010年5月5日》

無名坂(成増3丁目の坂Ⅰ)

  場所:東京都板橋区成増3丁目 東武東上線の成増跨線橋から北へ下る坂です。滑り止めが施された坂で曲がりながら下る結構きつい勾配の坂です。( 11% :11m/99m)成増3丁目27,29番地と28番地の間にあります。坂の途中に無名坂(成増3丁目の坂Ⅱ)の坂上があります。 《撮影日:2010年5月5日》

南(みなみ)坂【中台2丁目】

  場所:東京都板橋区中台2丁目 【標識なし】 [由来分類:所在位置(南側)] 東の台地、志村の方から、中台に上がるには、この坂を通るしかなかった。 坂の下を流れる出井川に架けられた摺張橋を渡り、この坂を上がり、練馬の富士街道につながる道であった。 坂の下には庚申塔が3基祀られていて、いづれも道しるべを兼ねている。うち1基は摺張橋の橋供養を行っていて、道中の無事を祈っている。 「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用 板橋区中台南坂緑地の西側を北から南へ上る坂です。写真で分かるように自転車を押して上がるくらいきつい勾配があります。( 11% :17m/160m) 《撮影日:2009年8月16日》 <寄り道で見つけた>👀📸 野鳥案内板にも「南坂」の記述がありました

無名坂(徳丸5丁目の坂Ⅱ)

  場所:東京都板橋区徳丸5丁目 板橋区立四葉公園の南東角を坂上にして南に下ります。徳丸5丁目27番地と四葉1丁目22番地の間にあります。この坂の坂上は 無名坂(徳丸5丁目の坂Ⅰ) の坂下でもあります。結構きつい勾配の坂です。( 10% :6m/63m) 《撮影日:2009年8月16日》

無名坂(徳丸4丁目の坂)

  場所:東京都板橋区徳丸4丁目 徳丸石川通りを坂下として南へ上る坂です。徳丸4丁目32番地と33番地の間にあります。滑り止めが施されているのがこの坂です。結構きつい勾配のある坂です。( 14% :10m/71m) 《撮影日:2009年8月16日》

平次(へいじ)坂 [へび坂]

  場所:東京都板橋区志村2丁目 【標識なし】 [由来分類:人名] いつの頃か平次という人が開いたと言います。台地の上と下を結ぶ坂道で 清水坂 を回らなくとも近道なので、農家の人々が利用しました。急勾配に加え崖から清水が道いっぱいに流れてくるので歩くのに大変でした。この様なところなので蛇が多く平次が転訛して「 へび坂 」と呼ばれていました。 『いたばしの地名』より引用 いつの頃か平次という人が開いたと伝えられている。別名を「 へび坂 」と呼ぶ。急勾配に加えて崖から清水が赤土の道いっぱいに流れ出しているので滑り易く、雨降りの時などは特にひどく草や木に摑まらないと登れなかった。農家の人たちが坂下の田畑に通うには、清水坂を回らず、この近道を利用した。  「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用 延命寺地蔵堂の西を南から北へ下る坂です。結構きつい勾配のある坂で写真でもわかりますが滑り止めが施されています。( 10% :7m/70m) 《撮影日:2009年2月8日》

無名坂(志村1丁目の坂Ⅱ)

  場所:東京都板橋区志村1丁目 無名坂(志村1丁目の坂Ⅰ) の坂上付近から南に下る坂です。志村1丁目26番地と27番地の間にあります。結構きつい勾配のある坂です。( 12% :8m/69m) 《撮影日:2009年1月11日》

馬の鞍(うまのくら)の坂

  場所:東京都板橋区志村1丁目   【標識なし】 [由来分類:使用用途(馬繋ぎ)] 日露戦役の時、軍馬にするため近在の村々から徴収した馬を一時繋いでいたので、馬の鞍といった。 昔は、前野村の学童が志村城山の学校に通う道で、学校の下から出井川にかけて杉林が鬱蒼と茂る谷であった。薄暗くじめじめとして薄気味が悪いので、皆は駆足で通り抜けたものだ。 「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用 志村1丁目27番地と28番地の間を南から北へ上る坂です。坂上では 無名坂(志村1丁目の坂Ⅰ) の坂下と出会います。写真でもわかりますが結構きつい勾配のある坂です。( 13% :11m/87m) 《撮影日:2009年1月11日》

無名坂(大谷口氷川神社周辺の坂Ⅴ)【大谷口上町】

  場所:東京都板橋区大谷口上町 大谷口氷川神社の北にある坂で、大谷口上町91番地と大谷口北町69番地の間を東に下る坂です。結構きつい勾配のある坂です。( 13% :4m/31m) 《撮影日:2010年5月4日》

寺(てら)坂

  場所:東京都板橋区小豆沢4丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(神社仏閣):龍福寺] 龍福寺と小豆沢神社のある台地から下る坂をいう。この先は荒川(現、新河岸川)に行き着き、江戸時代から新河岸川の舟運で栄えた小豆沢河岸(別名大根河岸)や、対岸の浮間とを結ぶ浮間の渡し場があった。今は小豆沢公園・新河岸川親水レクリエーションゾーンになっている。また隅田川・荒川・東京臨海部めぐり東京水辺ラインの船着場がある。 崖下左手には御手洗不動堂や池が復元されている。龍福寺の秘仏薬師如来が出現した所といわれ、この清水で眼病に罹た眼を洗うと治るといわれた。 「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用   小豆沢4丁目16番地と15番地の間を東へ上る坂です。寺の名前(ここでは龍福寺)がついた坂はたくさんありますが、単に”寺”という総称で呼ばれる坂は珍しいのでないかと思われます。 崖線を直線的に上る坂ではないので、それほどの勾配ではないかと思いきや結構きつい勾配のある坂となっています。( 10% :9m/93m) 《撮影日:2007年5月20日》 《撮影日:2009年2月8日》

間の(まの)坂[魔の坂]

  場所:東京都荒川区西日暮里3丁目 【標識なし】 [由来分類:不明 or 形状・地形(勾配)]   江戸時代の地誌『新選武蔵風土記』に登場する「地蔵坂」の解説には「谷中の台より道灌山の下へ通る坂なり、三十間ばかり」とある。「谷中の台」とは、西日暮里三丁目の台地のことであり、そこから道灌山の下へ下る坂といえば、現在の西日暮里公園の東側を通る急な坂(地蔵坂B)のことを示した記述である。しかし、今日では、この坂は「まの坂(「 間の坂 」「 魔の坂 」)」と呼ばれている。  地元の古老によれば「あまりに急なため、特に降りるときに危険だった。昔、荷物を引いていた牛馬が足を折ったり、転んで死んだ」とか、「昔、まだ西日暮里の駅舎がなくてトロッコが走っていた頃、他人と貨車がぶつかる事故があった。それで 魔の坂 などといわれるようになったのではないか」という話も残っている。これらは、交通・運輸に関わる荷物を運ぶ牛馬や鉄道から構成されており、どうやら近代以降に使われるようになった坂名のようだ。  上記の文章は、 荒川区教育委員会 荒川ふるさと文化館発行 荒川ふるさと文化館だより 第22号(平成21年3月27日) より抜粋させて頂きました。 読み方については”あいのさか”というサイトもありますが、私は急坂で危険であるという「 魔の坂 」押しで”まのさか”とルビをふりました。ご容赦くださいませ。 文章にも出てくるように、西日暮里公園の東側を北から南へ線路沿いに下る結構きつい勾配の坂です。( 13% :10m/80m) 《撮影日:2008年9月5日》

無名坂(西ヶ原3丁目の坂Ⅱ)

  場所:東京都北区西ヶ原3丁目 坂上が曹洞宗昌林寺です。西ヶ原3丁目14番地と11番地の間の坂です。結構きつい勾配のある短い坂です。( 11% :5m/47m)昌林寺は 江戸六阿弥陀の木残阿弥陀として巡礼の対象となった寺です。(木残の昌林寺と木余の性翁寺(足立区扇)を含めて八阿弥陀)  江戸六阿弥陀は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げた阿弥陀仏だといい、阿弥陀仏作成を依頼した長者が六ヶ所に寺を建立、六体の阿弥陀仏を一体ずつ安置したと言われています。六阿弥陀と称していますが、木余り・木残りの2仏を加えた8阿弥陀を巡礼、江戸時代中期から大流行した巡礼です。ちなみに1番西福寺(北区豊島)、2番恵明寺(足立区江北)、3番無量寺(北区西ヶ原)、4番与楽寺(北区田端)5番常楽院(旧下谷広小路)、6番常光院(江東区亀戸)とのことです。 《撮影日:2008年11月2日》

無名坂(西ヶ原3丁目の坂Ⅰ)

  場所:東京都北区西ヶ原3丁目 新熊野坂 の西側を南から北へ上る坂です。坂上は左に屈曲して行き止まりとなっています。西ヶ原3丁目32番地にある坂です。短くて結構きつい勾配のある坂です。( 11% :6m/53m) 《撮影日:2008年11月2日》

地蔵(じぞう)坂 【中十条2丁目】

  場所:東京都北区中十条2丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設( 神社仏閣:地蔵堂)]   地蔵坂 は、この坂の上の三叉路で合流し、ここを通って下る坂道です。現在の中十条2-11-1地先付近までが崖で、坂道は崖の手前の地蔵堂から続いていましたので 地蔵坂 と呼ばれていました。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設にともなう跨線橋の設置や道路の拡幅により今の位置に移転したものです。 JR京浜東北線の東十条駅南口から出て子育て地蔵尊の南にあります。くねりながら南へ上る結構きつい坂です。( 14% :9m/65m)写真でもわかるように滑り止めが施されています。 《撮影日:2008年10月9日》

芝(しば)坂

  場所:東京都北区中十条1丁目 【標識なし】 [由来分類:不 明 ] 岸町2丁目8番地と9番地の間を上って行くと、左手に滑り止めが施された坂が、右手には階段坂があらわれます。これが 芝坂 のようです。左側の坂は結構きつい勾配があります。( 13% :7m/53m)坂は岸町2丁目と中十条1丁目の境にありますが、中十条1丁目で整理しました。 《撮影日:2008年10月9日》

幽霊(ゆうれい)坂【田端1丁目】

  場所:東京都北区田端1丁目 【標識なし】[由来分類:不明] 坂名の由来は数々語られております。近くに東京脳病院(今の精神科病院)があり患者の奇声が聞こえたとか、以前は木々がもっと生い茂っていたので暗くそう呼ばれたとか、様々ですが確証が得られませんでした。上の写真だけ見ると、暗がりからの名前ともとれそうですが。田端1丁目25番地(与楽寺)と30番地の間にあり、西から東へ上ります。結構きつい勾配があり横方向の筋状の滑り止めが施されています。( 11% :8m/71m) 《撮影日:2008年10月9日》