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番匠免(ばんしょうめん)の坂

  場所:東京都板橋区赤塚7丁目 【標識なし 】  [由来分類:旧地名 & 職業] 赤塚中央通りの 大堂の坂 の下、前谷津川に架かっていた橋本橋から南に向かう坂をいう。この辺りの地名は旧小字番匠免と呼ばれ、かつての大寺であった大堂を建てたり維持にあたる番匠(大工)が住んでいた。これらの人は租税が免除されたのでこの名が付いた。「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用 前谷津川緑道と交差するあたりで 大堂の坂 の坂下と出会います。そこを境に南へ上る坂です。緩やかな勾配の坂です(3%:5m/170m) 《撮影日:2010年5月5日》   

畳屋(たたみや)坂

  場所:東京都世田谷区砧5丁目 【標識なし】 [由来分類:職業(畳屋)]   砧5丁目にある坂で、祖師谷通りを坂下にして東に上る坂です。 緩やかな勾配の坂です。(4%:10m/230m) 坂名の由来は、昔このあたりに畳屋があったことによるものだそうです。 《撮影日:2009年11月22日》

松見(まつみ)坂

  場所:東京都目黒区大橋2丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:職業(泥棒) or 伝説/言い伝え]   この坂から、「道玄物見の松(土神の道玄がその松に登って往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた)がよく見えたので、 松見坂 と呼ばれるようになったといわれる。  また、坂の途中に「松見地蔵」があったので坂の名になったという説もある。  昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる広大な原野があったが、今はその面影もない。 京王井の頭線の南側に位置する坂です。 松見坂交差点から西へ上る坂です。(淡島通りを走る坂) 緩やかな勾配の坂です。(2%:5m/230m) 《撮影日:2010年1月3日》

鉄飛(てっぴ)坂

場所:東京都目黒区大岡山1丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:自然現象 or 人名 or 職業]   「てっぴ」とは山頂、てっぺんを意味し、それが坂名になったともいわれるが他にもポルトガル人テッピョウスという人が住んでいたからや、鉄砲鍛冶がいたからなど諸説がある。 帝釈堂あたりを坂上として、西の目黒川方面に下る坂です。(平町2丁目19番地と20番地の南側) 少しきつい勾配のある坂です。( 8% :11m/140m) 《撮影日:2010年1月3日》 <坂の途中で>👀📸 鉄飛坂庚申塔群が収められている帝釈堂 鉄飛坂の坂上にあります

目切(めきり)坂

場所:東京都目黒区青葉台1丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:職業 or 形状・地形]   この付近にうすの目切りをする石工が住んでいたので 目切坂 とよばれるようになったといわれる。また、斜め切り通しなので 目切坂 とよばれるようになったともいわれる。 西郷山通りから東京音楽大学中目黒代官山キャンパスの北側を東に上る坂です。(上目黒1丁目の8番地と青葉台1丁目の6番地の間) 坂上が 違う坂 (Google mapでは東京富士見坂)の坂下となっています。 現在では一つの繋がった坂に思えますが。 少しきつい勾配のある坂です。( 7% :19m/280m) 《撮影日:2010年1月3日》

傘谷(かさだに)坂

場所:東京都文京区湯島2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:職業(傘つくり)]   傘谷をはさんで、向き合う二つの坂をいう。改選江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで 傘谷 、 傘坂 の名がついた。  金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、  “あさはかに 家居移しし 悔心       このやけあとに 立ちて嘆かゆ” 湯島2丁目から一旦南(傘谷)に下り、日本サッカーミュージアムの東側をまた南に上る坂です。 通りはサッカー通りという名前です。 勾配はそれぞれに緩やかです。(3%:4m/130m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2011年1月4日》 <坂の途中で>👀📸 日本サッカーミュージアム

炭団(たどん)坂

場所:東京都文京区本郷4丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:職業(炭団)、形状・地形(勾配)、形状・地形(湿地)]   本郷台地から 菊坂 の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。  台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないことは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。  この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。 坪内逍遥旧居・常磐会跡の東を北から南に上る坂です。 写真のように急坂のため、階段状に整備されています。( 25% :7m/28m) 標識の説明にもあるように、急だったため転んで泥だらけになることもしばしばあったと思われます。 《撮影日:2008年10月12日》

菊(きく)坂

場所:東京都文京区本郷4丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:植物(菊)、職業]   「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多居住仕候に付、同所の坂を 菊坂 と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。  今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂 を 菊坂 といっている。  また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。    寝覚めせしよはの枕に音たてて      なみたもよほす初時雨かな   樋口夏子(一葉) 菊坂下から本郷通までの長く緩やかな坂です。(2%:10m/600m) この 菊坂 には 胸突坂 、 梨木坂 、 本妙寺坂 、 金魚坂 と多くの坂が流れ込みます。 菊坂 周辺には多くの文人が居を構えていたことでも知られています。 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2009年4月2日》 《撮影日:2011年1月4日》 <坂の途中で>👀📸 菊坂に残る一葉ゆかりの質屋伊勢屋 一葉が使っていたとされる井戸 菊坂界隈文人マップ 文の京 一葉文学のまち案内図 菊坂お休み処 いろは 宮沢賢治旧居跡案内板 宮沢賢治旧居跡

鐙(あぶみ)坂

場所:東京都文京区本郷4丁目 【 標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:職業(鐙製作者) or 形状・地形(勾配)]  本郷台地から 菊坂 の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられた(『改選江戸志』)などといわれている 。  この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。 樋口一葉菊坂旧居跡や金田一京助・春彦旧居跡の近くにある坂です。 南から北へ上る坂で、結構きつい勾配があります。( 13% : 3m/24m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2011年1月4日》

団子(だんご)坂[潮見坂][千駄木坂][七面坂]【千駄木2丁目】 

場所:東京都文京区千駄木2丁目 【 標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:職業(団子屋)、形状・地形(悪路)]    潮見坂 、 千駄木坂 、 七面坂 の別名がある。 「 千駄木坂 は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗 団子坂 と唱ふ云々」(御府内備考)  「 団子坂 」の由 来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「 七面坂 」の名が生まれた。「 潮見坂 」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。  幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 不忍通りの団子坂下交差点から西へ上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :11m/170m) 《撮影日:2007年11月10日》 《撮影日:2011年2月13日》 <寄り道で見つけた>👀📸 上野の御山散歩(千駄木2丁目) 台東区の上野公園からの流れで「散歩道」が設定されているようです。 散歩標識が意外に多く、千駄木1丁目では「駒込寺町散歩道」といったものがありました。   団子坂下交差点を谷中墓地に行く道の右手(少し入り 込んだ位置)に「 いせ辰 」(千駄木店)さんがあります。 個人的にも結構利用させていただいたお店で、本店 はもう少し谷中側にあります。 特に江戸千代紙の種類 は豊富ということですが、私は風呂敷や手ぬぐい・ハン カチを贈答(記念品)に使わせてもらっています。 在京時にいた会社では海外のお客さんへのsmall presentに 使っていました。

網干(あみほし)坂

場所:東京都文京区千石2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:職業]   白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「 湯立坂 」に向かいあっている。  むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。  その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に千川は暗渠となった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。 小石川植物園の北側にある坂です。 植物園の壁に沿って北から南西に下る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 8% :12m/150m) 《撮影日:2008年10月12日》

念仏(ねんぶつ)坂

場所:東京都新宿区住吉町 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】    [由来分類:居住者、職業、形状・地形(階段)]   新撰東京名所図会によると、昔この坂あたりに老僧がいて、昼夜念仏を唱えていたという。また、この坂の左右は谷に臨んで屈曲し危険であったので通行人は念仏を唱えて往来したという。 旧フジテレビ案内碑がある坂下方面からだと左に屈折しながら上る石段坂です。 《撮影日:2008年11月29日》 《撮影日:2011年7月29日》

軽子(かるこ)坂

場所:東京都新宿区揚場町2丁目 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:職業(軽子)]   この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。  軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。 神楽坂 と並行して外堀通りから南西に上る坂です。 2度ほど訪れていました。 少しきつい勾配のある坂道です。( 6% :9m/150m) 《撮影日:2008年11月23日》 《撮影日:2011年7月29日》