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十貫(じっかん)坂

  場所:東京都杉並区和田1丁目 【標識なし】 [由来分類:伝説・言い伝え(不明?)]  (中野・給排水・海老沢愛子記より抜粋) 十貫坂 は、杉並区和田1丁目から中野通りへ向かう100メートル余りの上り坂を『 十貫坂』 と呼んでいてその坂を上ると『十貫坂上』で中野通りと交差する地点を渡ったところが、鍋屋横丁です。  この坂の由来については、いろいろな中野長者伝説があります。18世紀半ば、村のわきの畑のあぜから壷に入った古銭十貫文が掘り出され、これを坂の名前にした。『成願寺縁起』によると、長者がこの坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買った。他にも財宝を埋めた。などの由来があります。  以前からひったくり等が多発する場所で現在も注意の看板があります。 坂の勾配は緩やかです。(5%:5m/110m) 《撮影日:2009年7月19日》 <坂の途中で>👀📸                 民間信仰石塔(十貫坂地蔵堂)                   ここに建立されている石塔は、元禄5年(1692)銘・正徳2年(1712)銘の庚申塔、享保2年(1717)銘の地蔵塔、建立不明の庚申塔1基と、地蔵塔2基の計6基があります。  庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。  江戸時代には、本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。  地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多くの建立されています。  ここの石塔は、この辺りが武州多摩郡和田村字本村、又は砂利田と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれてます。  現在でもこの信仰の気持ちは変わらず、参拝に...

鐙(あぶみ)坂【南馬込4丁目】

場所:東京都大田区南馬込4丁目 【標識(大田区設置)の説明】 [由来分類:伝説/言い伝え]   大正末期から始った耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった。坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという、鐙谷の地名から名付けられたものという。 南馬込4丁目3,4番地と12,13番地の間を走る坂です。 南から北へ上る少しきつい坂です。( 6% :13m/220m) 《撮影日:2009年9月20日》

朗師(ろうし)坂

場所:東京都大田区池上1丁目 【標識(大田区設置)の説明】   [由来分類:伝説・言い伝え or 職位(聖人)]   日蓮聖人の愛弟子日朗聖人は、祖師入滅後ささやかな草庵をつくり山上の日蓮聖人御廟所へ、毎日この坂を上って参詣したといわれる。 朗師会館と池上会館の間を上がる石段の坂です。 《撮影日:2009年9月20日》

十七(じゅうしち)が坂

場所:東京都目黒区目黒3丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:伝説・言い伝え]   「十七」とは若者をさし、元気な若者たちは回り道をせずに、この急坂を利用したことから名が付いたという説や坂の途中にある板碑型庚申塔に十七人の名が刻まれていることに関連するという説など、由来についてはいくつかの説がある。 馬喰坂 と 金毘羅坂 の間を目黒川に沿って北西から南東方向に下る坂です。 滑り止めが施された結構きつい勾配の坂です。( 10% :10m/99m) 《撮影日:2010年1月3日》

蜀江(しょっこう)坂【中根2丁目】

場所:東京都目黒区中根2丁目 【標識なし】 [由来分類:       ]   坂の名は、「衾村々誌」によると、1365年、世田谷城主の吉良治家が、わが子祖朝の若死にを悼んで東岡寺(東光寺)を建立したとき、蜀江の錦、七条(七条は袈裟の大きさを表す)の袈裟と土地を寄進した。 蜀江坂 はこれにちなんだ名であると記している。(目黒区HPより引用) 本来の坂は廃道となっており、現在は新区画整理によって新しくできた坂を 蜀江坂 と呼んでいるようです。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :10m/170m) 《撮影日:2010年1月3日》

謡(うたい)坂

場所:東京都目黒区上目黒4丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:伝説/言い伝え]   昭和の初め頃、この坂の近くに謡の好きな人が住んでいたので、 謡坂 と呼ぶようになったといわれる。 区立上目黒小学校の北側を走る坂です。(上目黒4丁目30番地の南側) 緩やかな勾配の坂です。(2%:2m/100m) 《撮影日:2010年1月3日》

松見(まつみ)坂

  場所:東京都目黒区大橋2丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:職業(泥棒) or 伝説/言い伝え]   この坂から、「道玄物見の松(土神の道玄がその松に登って往来の人を見下ろし、手下に命じて衣服や携帯品を掠奪したためにその名がついた)がよく見えたので、 松見坂 と呼ばれるようになったといわれる。  また、坂の途中に「松見地蔵」があったので坂の名になったという説もある。  昔は、この坂の北西には、駒場野と呼ばれる広大な原野があったが、今はその面影もない。 京王井の頭線の南側に位置する坂です。 松見坂交差点から西へ上る坂です。(淡島通りを走る坂) 緩やかな勾配の坂です。(2%:5m/230m) 《撮影日:2010年1月3日》

実盛(さねもり)坂

場所:東京都文京区湯島3丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:伝説/言い伝え]   「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。  実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183年)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。  斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。  湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。 中坂 と 三組坂 との間にある階段坂です。 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2009年7月4日》 《撮影日:2011年1月4日》

薬罐(やかん)坂[夜寒坂]【目白台2丁目】

場所:東京都文京区目白台2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:所在位置(くらがり) 、 伝説・言い伝え]  江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。    やかん坂 のやかんとは、野カンとも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、 薬罐坂 と呼んだ。 夜寒坂 のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。   この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。   この道を行きつつみやる谷こえ て      蒼くけぶる護国寺の屋根    (窪田空穂) 不忍通りから文京区立目白台交流館の方向へ上る坂です。 緩やかな勾配の坂です。(5%:6m/130m) 《撮影日:2008年11月2日》

見送り・見返り(みおくり・みかえり)坂

場所:東京都文京区本郷4丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:伝説/言い伝え]   「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。  この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、 菊坂 の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。  江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから 見送り坂 。追放された人がふりかえりながら去ったから 見返り坂 といわれた。  今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。 本郷通りの緩やかな坂です。(2%:1m/50m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2009年6月8日》 《撮影日:2011年1月4日》

狸(たぬき)坂【千駄木3丁目】

場所:東京都文京区千駄木3丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:動物(狸)、伝説・言い伝え]   このあたりは、旧千駄木林町で、昔は千駄木山といって雑木林が多く坂上の一帯は、俗に「狸山」といわれていた。その狸山に上る坂なので 狸坂 と名づけられた。  狸山の坂下は根津の谷で、昔は谷戸川(藍染川・現在暗渠)が流れて田んぼが開け、日暮里の台地と向かいあっている。この日暮里に諏方神社があり、8月27日の祭礼が終わっても、どこからともなく「里ばやし」が毎夜聞こえてきた。  土地の人たちは、これを千駄木山の“天狗ばやし”“馬鹿ばやし”といって、狸山にすむ狸のしわざといい伝えてきた。民話にちなむおもしろい坂名である。 大給坂 と きつね坂 に挟まれた坂です。 不忍通りへ降りる坂で、結構きつい勾配のある坂です。( 10% :10m/100m) 《撮影日:2008年10月12日》

猫又(ねこまた)坂

 場所:東京都文京区千石2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:所在施設(猫又橋) or 伝説/言い伝え]   不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。  また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。  むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸か、とあわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。 不忍通りが千川通りの千石2丁目交差点へと下る坂です。 坂は緩やかで大きな道幅があります。(5%:9m/190m) 《撮影日:2008年10月12日》 <坂の途中で>👀📸 坂名の由来となった猫又橋の説明板と親柱袖石の碑

薬罐(やかん)坂[小日向1丁目]

場所:東京都文京区小日向1丁目 【標識なし】 [由来分類:所在位置(くらがり) or 自然現象(銅薬罐の色) or 伝説/言い伝え]   (東京物怪観光HPより引用)   薬罐坂 と呼ばれる坂道は、文京区小日向1丁目付近、同じく文京区目白台2丁目と3丁目の間、新宿区若葉三丁目付近、杉並区上荻2丁目付近の都内計4箇所にあります。いずれも暗く寂しい処で、何か出てもおかしくないような坂道でした。この坂を夜一人で通っていると、薬罐の化け物が転がって来る事から 薬罐坂 と呼ばれています。しかしその呼び名の由来は諸説あるようで、坂道の露出した赤土の色が銅薬罐の色に似ている事からであるとか、「やかん」とは野狐の事で、狐が出て化かしてもおかしくないような寂しい所だからとも謂われています。また隠語では日暮れに客を引く娼婦の事を薬罐と呼ぶらしく、岡場所近くで怪しい女性が出没する坂と謂う意味もあるようです。「お化け名所図繪」の 薬罐坂 は目白台にあった坂をイメージして制作されています。向かって右側に見えるのは松平出羽守邸の外壁、左側は矢場で、整地されてない雑木林部分が沢山あって、昼でも暗かったのでは?という想像を基にこのような繪に仕上げられています。あくまで想像の域を出ませんが、切繪図と現代の地図を見比べながら当時の光景に想いをはせるのは楽しい作業です。 小日向公園の西側を南から北へ上る坂です。 すこしきつい勾配のさる坂です。( 8% :7m/86m) 《撮影日:2009年7月4日》 <坂の途中で>👀📸 文京区立小日向公園は坂の東側にあります

蛙(かえる)坂[復坂]

場所:東京都文京区小日向1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:動物 or 伝説/言い伝え]   「 蛙坂 は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は 復坂 ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)  『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に 蛙坂 とよぶようになったと伝えている。  なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は 切支丹坂 に通じている。 貞静学園短期大学の横を西から東へ下る坂です。 結構きつい勾配のある坂です。( 13% :2m/15m) 標識の説明では、 切支丹坂 に通じているとありますが、実際歩くと坂上同士が南北に200mくらい離れています。 《撮影日:2009年7月4日》 <坂の途中で>👀📸 宗四郎稲荷神社(坂下方面)

開運(かいうん)坂

  場所:東京都文京区大塚5丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明 】 [由来分類:maybe 伝説/言い伝え]     坂名の由来については、よくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。  このあたりは、 富士見坂 (大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから、旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。  坂の上の南側には、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には、明治6年(1873)に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。  豊島岡墓地の東側は大塚先儒墓所である。江戸時代の高名な儒学者である、木下順庵、室鳩巣、尾藤二州や古賀精里などの墓がある。  ”護国寺に住みている鳩 屋根はなれ    高く飛びおり 春日の空に”                窪田空穂(1877-1967) 大塚警察署大塚6丁目交番のある開運坂下交差点を坂下に南西に上る坂です。 結構きつい勾配のある坂です。( 10% :8m/83m) 《撮影日:2009年7月4日》

三年(さんねん)坂【津久戸町】

場所:東京都新宿区津久戸町 【標識なし】[由来分類:   ] 大久保通りの津久戸町交差点を坂下として、南西に下り 神楽坂 の坂上に至る坂です。 坂には本多横丁も含まれます。 緩やかな勾配の坂です。(4%:5m/120m) 《撮影日:2008年11月23日》

神楽(かぐら)坂

神楽坂1丁目付近 神楽坂5丁目付近 場所:東京都新宿区神楽坂 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明 】   [由来分類:施設(神社仏閣) 伝説言い伝え]   坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。 勾配は神楽坂下交差点から神楽坂上交差点の間でおしのべて見ると緩やかです。 (2%:8m/450m) 《撮影日:2008年11月23日》 《撮影日:2011年7月29日》 《撮影日:2014年10月11日》(上京時) <寄り道で見つけた>👀📸 神楽坂1丁目 神楽坂道標 神楽坂3丁目 かくれんぼ横丁 神楽坂3丁目 五十番 神楽坂3丁目 本田横丁 神楽坂4丁目 兵庫横丁 神楽坂5丁目 毘沙門天善国寺 神楽坂6丁目 牛込中央通り