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ラベル(<H090>形状・地形(たとえ))が付いた投稿を表示しています

夫婦(めおと)坂【上池台4丁目】

場所:東京都大田区上池台4丁目 【標識(大田区設置)の説明 】 [由来分類:形状・地形(たとえ)]   この坂は、北馬込一丁目品川境から、環七通りを挟んで上池台四丁目地先に連なる坂で、その向い合うさまを夫婦にたとえてよぶようになったといわれている。 貝塚坂 の北側に位置し、環七通りを横切って 貝塚坂 の坂上まで南下する坂です。 緩やかな勾配の坂です。(3%:8m/250m) 《撮影日:2009年9月20日》

瓢箪(ひょうたん)坂

場所:東京都新宿区白銀町 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:形状(たとえ)]   坂の途中がくびれているため、その形から 瓢箪坂 とよばれるようになったという。 新宿区立白金公園の南角を坂上として南東に下る坂です。 今は整備をされたせいなのか、途中がくびれているようには見えませんでした。 少しきつい勾配のある坂です。( 7% :4m/61m) 《撮影日:2008年11月23日》

歌(うた)坂[雅楽坂]

場所:東京都新宿区市谷砂土原町3丁目 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:形状・地形(たとえ)善知鳥の口ばし]   雅楽坂 ともいう。一説には「善告鳥(うとう)(海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であることからともいう。「うとう」が「うた」になり、 歌坂 に転じたものであろう。 法政大学市谷田町校舎の北側を牛込中央通りから北東に上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 7% :5m/71m) この坂の北側には並行に走る 鰻坂 があります。 《撮影日:2008年11月23日》

於多福(おたふく)坂

場所:東京都港区六本木5丁目 【標識(港区設置)の説明】  [由来分類:形状(たとえ:お多福面)]   坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになってまた下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。 麻布通りの西側を北から南へ下る坂です。 坂下で 潮見坂 の坂下と出会います。 緩やかな勾配の坂です。(4%:3m/67m) 《撮影日:2009年2月7日》

薬研(やげん)坂[何左衛門坂]

青山通り川の坂上から中央坂下を見た TBS側坂上から中央坂下を見た  真ん中を中心に窪んでいる様子がよくわかります 場所:東京都港区赤坂7丁目 【標識(港区設置)の説明】 [由来分類:形状・地形(たとえ or くねり:薬研)]   中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で 何左衛門坂 とも呼んだ。 中央がくぼみ、両端が高くなっている長い坂で、この形が、薬種(薬の材料)を砕く器具の薬研に似ているのでこう呼ばれています。この坂は2.26事件に近衛第三連隊(現TBS・赤坂パークビルジング)の兵士が時の大蔵大臣高橋是清殺害のために向かった道でもあります。(港区HPより引用) 当時は工事中だったためか、視界が却ってよく中央のくぼみがよくわかる写真が撮れました。 勾配は少しきつめでした。( 7% :6m/85m) 《撮影日:2009年3月28日》 <坂の途中で>👀📸 赤坂ガーデンシティの横を下る薬研坂 勾配がわかる写真かなと思います 赤坂コミュニティプラザ

鍋割(なべわり)坂【隼町】

場所:東京都千代田区隼町 【標識なし】 [由来分類:形状]   隼町の国立劇場の北側を「内堀通り」から西に上り、ほぼ半ばからまた西に下る坂です。『御府内沿革図書』の図では、延宝元年の図には明示されていません。天保6年(1835)~文久元年(1861)の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じています。その後、町筋の変動によって現在のようになったと考えられます。坂の名の由来は、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しなので、この名が起こったといわれています。(千代田区HPより引用) 千鳥ヶ淵緑道を内堀通りに抜ける坂です。 勾配が緩やかなので、はっきりと鍋を伏せた様子を写真でお伝えすることは出来ません。(1%:1m/160m) 《撮影日:2010年1月10日》

鍋割(なべわり)坂【九段南2丁目】

場所:東京都千代田区九段南2丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:形状・地形(くねり)] この坂を 鍋割坂 といいいます。「新撰東京名所図会」には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり。」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同じ名の坂があります。 千鳥ケ淵ガーデンロードに面しているフェアーモントホテルの南側を内堀通りに抜ける坂道です。坂の名の由来は「隼町の鍋割坂」と同様に、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しから、この名が起こったといわれています。(千代田区HPより引用) 写真の中奥・坂の中央部分が高くなっているから(鍋を伏せた?ようだから)この名前が付いたのでしょうか。 勾配は緩やかです。(4%:4m/91m) 《撮影日:2008年12月28日》