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臼田(うすだ)坂

場所:東京都大田区南馬込4丁目 【標識(大田区設置)の説明】 [由来分類:人名(臼田)or 居住者] 坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起ったといわれている。 臼田神社から南に下る坂です。 全体的には少しきつい勾配の坂ですが、滑り止めが施された場所もあり難儀な坂のように思えます。( 6% :18m/300m) 《撮影日:2009年9月20日》

大尽(だいじん)坂

場所:東京都大田区仲池上2丁目 【標識(大田区設置)の説明 】 [由来分類:居住者、総称(大尽)]   昔、大尽(財産をたくさん持っている人)が、このあたりに住んでいたということで名付けられたという。 仲池上2丁目の庚申塚付近を坂下として東へ上る坂です。 相当きつい勾配のある坂です。( 15% :13m/84m) 《撮影日:2009年9月20日》

庄屋(しょうや)坂

場所:東京都大田区上池台4丁目 【標識(大田区設置)の説明 】 [由来分類:職位 or  居住者(庄屋)]   坂の付近に、昔から庄屋の家があったと伝えられることから、この名がついたといわれる。 射水坂 、 無名坂(貝塚坂横の坂Ⅱ) と坂下を共有する坂です。 無名坂(貝塚坂横の坂Ⅱ) とは対峙する形で、北西方向に上って行きます。 少しきつい勾配のある坂です。( 9% :13m/140m) 《撮影日:2009年9月20日》

行人(ぎょうにん)坂【下目黒1丁目】

場所:東京都目黒区下目黒1丁目 【標識(目黒区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:居住者] 寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、 行人坂 と呼ばれるようになったといわれています。 【標識(目黒雅叙園設置)の説明】 [由来分類:居住者] 行人坂 の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(山形県)湯殿山から高僧行人「大海法師」を勧請して開山した。その時不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。 当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は 行人坂 と呼ばれるようになった。 目黒駅前から目黒川に向かって(西側)下る坂です。(下目黒1丁目ホリプロの南側) この坂の北側には並行に 権之助坂 が走っています。 結構きつい勾配のある坂です。( 10% :22m/220m) 《撮影日:2010年1月3日》 <寄り道で見つけた>👀📸 行人坂の由来となった大円寺と石仏群 目黒雅叙園

異人(いじん)坂

場所:東京都文京区弥生2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:居住者(外国人)]   坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通って、不忍池や上野公園を散策した。当時は外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りする坂なので、 異人坂 と呼ぶようになった。  外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。  異人坂 を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番地付近の地である。経営者は朝倉松五郎で、日本のレンズ工業の生みの親である。 根津小学校の南側に位置する坂です。 東から西に上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 9% :7m/75m) 《撮影日:2008年11月2日》

比丘尼(びくに)坂【四谷本塩町】

場所:東京都新宿区本塩町 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:居住者(比丘尼)]     「御府内備考」によると、昔、この坂の近くの尾張家の屋敷に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。 靖国通りの南に位置し並行に走る坂です。 西から東へ下る坂です。 緩やかな勾配の坂です。(3%:3m/96m) 《撮影日:2009年5月6日》

比丘尼(びくに)坂【矢来町】

場所:東京都新宿区矢来町 【標識なし】  [由来分類:居住者(比丘尼)] 矢来町と天神町の間を早稲田通り沿いから北へ下る坂です。 緩やかな勾配の細い坂です。(5%:7m/140m) 《撮影日:2009年5月6日》

念仏(ねんぶつ)坂

場所:東京都新宿区住吉町 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】    [由来分類:居住者、職業、形状・地形(階段)]   新撰東京名所図会によると、昔この坂あたりに老僧がいて、昼夜念仏を唱えていたという。また、この坂の左右は谷に臨んで屈曲し危険であったので通行人は念仏を唱えて往来したという。 旧フジテレビ案内碑がある坂下方面からだと左に屈折しながら上る石段坂です。 《撮影日:2008年11月29日》 《撮影日:2011年7月29日》

奴(やっこ)坂

場所:東京都港区南麻布3丁目 【標識(港区設置)の説明】   [由来分類:周辺の地形etc.]   竹が谷の小坂で 谷小坂 、 薬王坂 のなまりで やつこう 坂 、 奴 が付近に多く住んでいた坂の三説がある。 薬園坂坂上の本村公園の南側を東西に走る坂です。 この坂を更に西へ行くと 阿衡坂 へと繋がります。 私はその先に 阿衡坂 があることを全く知りませんでした。 後で地図を見て知った次第です。(残念!!) 勾配は少しきつい坂ですが、うねって走っていました。( 7% :5m/69m) 《撮影日:2009年2月7日》

行人(ぎょうにん)坂[法印坂][法眼坂]【三番町】

場所:東京都千代田区三番町 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名(総称)] この坂を 行人坂 といいます。「東京名所図会」には「 行人坂 、 上六番町と中六番町との間を南の方へ上る坂を称す」とかかれています。「御府内備考 」に「 行人坂 、古某法印と称する行人この辺に居するゆえにこの名あり。また 法 印坂 とも呼び或は転化して 法眼坂 という」。 もともと 法眼坂 を 起伏により 東郷坂 、 行人坂 、 南法眼坂 と三つの名に分けてよんだものであり、 法眼坂 の名称だけの地図も多いようです。 南法眼坂 からさらに北に下る坂です。『御府内備考』に「行人坂、古、某法印と称する行人この辺りに居するゆへこの名あり、また 法印坂 とも呼び 法眼坂 といふ。」と述べられているところから、坂の名がつけられたと思われます。なお、 南法眼坂 ・ 行人坂 と次の東郷元帥記念公園西側の 東郷坂 は、南北に続く上がり下がりの坂道で、古くはこの坂道全体を 法眼坂 と呼んでいたようです。(千代田区HPより引用) 東郷通りと番町学園通りの交差点から南方面(番町文人通り)へ下る坂で、 東郷坂 と前述の交差点を挟んで対峙している坂です。 勾配は緩やかな坂です。(5%:6m/120m) 《撮影日:2008年12月28日》

甲賀(こうか)坂

場所:東京都千代田区神田駿河台1丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:居住者(甲賀)]  この坂を 甲賀坂 といいます。「東京名所図会」には,「南北甲賀町の間に坂道あり、 甲賀坂 という 。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも, 又光感寺(こうかんじ)の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町とよばれていたことから 名がつけられました。甲賀町の名は, 昭和8年(1933)から駿河台1、3丁目となりました。 「お茶の水仲通り」にあるNTT駿河台の前から、「明大通り」の明大前交差点を通って山の上ホテル前にいたる坂です。 『新編江戸志』には「往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、また、光感寺の旧地をも記されたるが、一説に、往古、馬場昌宇という御医師の屋舗ありし故、戯れに世俗これを 甲賀坂 というよし里諺なり」とあります。(千代田区HP引用) 情けない話ですが、小さい頃から”こうか”ではなく、”こうが”と読んでおりました。伊賀忍者(いがにんじゃ)に対して、甲賀忍者(こうがにんじゃ)も同様でした。 😢 甲賀通りを東から西へ走る坂で、勾配は本当に緩やかです。(2%:3m/140m) 《撮影日:2008年12月28日》 《撮影日:2013年3月15日(上京時)》 <坂の途中で>👀📸 小栗上野介生誕の碑 甲賀坂と明大通りの交差点