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荒木(あらき)坂

坂下より

場所:東京都文京区小日向1丁目

【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)荒木志摩守] 
称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
 『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅弐軒弐尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
標識の通り称名寺の東側を南から北に上がる坂です。坂の勾配は結構きついものがあります。(12%:9m/75m)坂より西側はお寺がたくさんあるところで、称名寺からはじまって本法寺、日輪寺、善仁寺と続きます。文京区自体たくさんの寺がある地域です。(明暦の大火の後、各地区に火除地が設けられて、それぞれの地域あった寺が江戸の郊外だった地に集まってきたということらしいです。その一つが文京区だとか)

《撮影日:2009年7月4日》

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