スキップしてメイン コンテンツに移動

モチ坂

 


場所:東京都北区上中里1丁目

【標識(北区教育委員会設置)の説明】  [由来分類:植物(モチの木)] 
 ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向う上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治十年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。

上中里1丁目7番地のJR線側の崖淵に標識だけが残されています。
北区HP(飛鳥山博物館)でも
かつて坂道が存在したところは、鉄道敷設部分にあたり、現在ではその様子を見ることができません。
とあります。坂があったことの印だけでもあるのがありがたかったです。

《撮影日:2009年7月4日》

コメント

このブログの人気の投稿

不動(ふどう)坂【六本木3丁目】

場所:東京都港区六本木3丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(神社仏閣:五大山不動院)]   五大山不動院の北側を東西に走る坂です 。 西の六本木墓苑側を坂下として東に上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 7% :7m/99m) この坂の北側に 丹波谷坂 が並行に走っています。 《撮影日:2009年4月19日》

樹木谷(じゅもくだに)坂[地獄谷坂]

場所:東京都文京区湯島1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:植物]   地獄谷坂 とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の路を北へ、 新妻恋坂 まで下る坂である、そして、 新妻恋坂 をはさんで 、 横見坂 に対している。  「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野々遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。  徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。   地獄谷坂 と呼ばれたのは、その音の訛りである。  なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。 中山道から蔵前橋通りへ下る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :4m/67m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2011年1月4日》

新(しん)坂[鶯坂][根岸坂]【上野公園】

場所:東京都台東区上野公園 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:設置時期(新旧)] 明治になって新しく造られた坂である。それで 新坂 という。明治11年(1878)内務省製作の『上野公園実測図』にある「 鶯坂 」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期に造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので 、「 鶯坂 」ともいわれ 、坂下の根岸にちなんだ「 根岸坂 」という別名もある。 鶯谷駅南側のJRの高架を潜り、台東区立忍岡中学校の西側を南に上る坂です。 鮮明な記憶はないのですが、3度も訪れていました。 緩やかな勾配の坂です。(3%:3m/120m) 《撮影日:2008年10月9日》 《撮影日:2013年3月15日(上京時)》 《撮影日:2014年10月12日(上京時)》