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地蔵(じぞう)坂 【中十条2丁目】

  場所:東京都北区中十条2丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設( 神社仏閣:地蔵堂)]   地蔵坂 は、この坂の上の三叉路で合流し、ここを通って下る坂道です。現在の中十条2-11-1地先付近までが崖で、坂道は崖の手前の地蔵堂から続いていましたので 地蔵坂 と呼ばれていました。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設にともなう跨線橋の設置や道路の拡幅により今の位置に移転したものです。 JR京浜東北線の東十条駅南口から出て子育て地蔵尊の南にあります。くねりながら南へ上る結構きつい坂です。( 14% :9m/65m)写真でもわかるように滑り止めが施されています。 《撮影日:2008年10月9日》

芝(しば)坂

  場所:東京都北区中十条1丁目 【標識なし】 [由来分類:不 明 ] 岸町2丁目8番地と9番地の間を上って行くと、左手に滑り止めが施された坂が、右手には階段坂があらわれます。これが 芝坂 のようです。左側の坂は結構きつい勾配があります。( 13% :7m/53m)坂は岸町2丁目と中十条1丁目の境にありますが、中十条1丁目で整理しました。 《撮影日:2008年10月9日》

馬(うま)坂【中十条4丁目】

  場所:東京都北区中十条4丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:動物 or 形状・地形(うねり:馬の背)]  昔は低地の村村から板橋宿へ通じる急坂で、坂下に荒沢不動の池があった。この道は姥ヶ橋地蔵尊の付近で王子へ通じる稲荷道と交差し、御成橋を経て板橋宿に至る。坂の名は豊島村馬場の「馬」に関係があるように思われるが、坂の地形が馬の背に似ていたからともいう。以前は農家の耕地への往復にも役立っていたが、付近の都市化と環状七号線の開設で役割りも形状も著しく変化してしまった。  旧道は平和橋手前を右に下っていた。 環七を走る坂でJR跨線橋(平和橋)を坂下に北区中十条三丁目交差点が坂上となります。緩やかな勾配の大きな道幅の坂です。(3%:3m/110m)昔とは形も変わっていると思われますが、 環七に上がる 旧馬坂の名残の階段坂が南にあります。 《撮影日:2009年7月4日》

江戸(えど)坂

  場所:東京都北区田端6丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:  ]  田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道で、坂名もそれに由来するもののようです。この坂の近くに、詩人の室生犀星、俳人の瀧井孝作、画家の池田輝方、池田蕉園夫妻、画家の岩田専太郎、詩人の福士幸次郎が住んでいました。坂上の左手に露月亭という茶屋があり、陶芸家である板谷波山が35歳の頃、そこで、飛鳥山焼と銘を入れた徳利と猪口を売ったことがあったということです。 田端6丁目1番地を取り囲むように北西に上がって南西に上るという直角の坂です。少しきつい勾配のある坂です。( 6% :11m/180m)坂名の由来は 江戸(下谷浅草方面)に行く坂だとありますが、この坂周辺の地域も江戸ではなかったのかと思い、あえて不明のままとしました。江戸つまり御府内を示す江戸朱引図では、北側については”荒川・石神井川下流限り”とありますので、現在の北区でも御府内とそれ以外とに分けられますが、朱引図で見ても田端はギリギリ御府内つまり江戸の内だったのではないかと・・。 《撮影日:2008年10月9日》

無名坂(田端4丁目の坂)

  場所:東京都北区田端4丁目 JR山手線沿いを南西から北東に上る坂です。緩やかな勾配の坂です。(3%:5m/170m) 《撮影日:2008年10月9日》

八幡(はちまん)坂【田端4丁目】

  場所:東京都北区田端4丁目 【標識(北区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:施設(神社仏閣:上田端八幡神社)]   坂の名は, 坂下にある八幡神社に由来します。坂下の上田端児童遊園のところにあった紅葉館に 小説家の堀辰雄が下宿していたほか, この坂の近くには, 小説家の菊地寛, 詩人の室生犀星, 画家の倉田白羊, 彫刻家である吉田三郎や池田堯八が住んでいました。芥川龍之介は, その随筆に「踏石に小笹をあしらったのは, 詩人室生犀星の家」と書いています。 上田端八幡神社・上田端児童遊園の東南を走る八幡坂通りの坂です。田端4丁目18番地と23番地の間にあります。少しきつい勾配のある坂です。( 6% :7m/120m) 《撮影日:2008年10月9日》

ポプラ坂

  場所:東京都北区田端3丁目 【標識(東京都設置)の説明】 [由来分類:施設(倶楽:ポプラ倶楽部)]  田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、 ポプラ坂 の名はこれに因むものです。ポプラ倶楽部は、 明治41年(1908)頃、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、 田端に住む洋画家の社交場となったものです。 陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊地寛などが、この直ぐ近くに住んでいました。大正2年(1913)、田端に越してきた芥川竜之介は、その1ヶ月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。 田端3丁目18番地と20番地の間を南から北へ上る坂です。少しきつい勾配のある細い坂です。(9%:4m/47m) 《撮影日:2008年10月9日》 《撮影日:2009年5月21日》 <寄り道で見つけた>👀📸 田端には多くの文士が住んでいました。それを紹介する道しるべ「田端文士芸術家村」 田端日枝神社 右が参道です