場所:東京都文京区弥生2丁目
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:地名(弥生町)、施設(学校・学問所)]
かつてこのあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615~24)の頃から御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。
明治2年(1869)これらの地は明治政府に公収されて大学用地になった。明治5年(1872)には、この周辺に町家が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。
弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
名にしおふ張るに向ふが岡なれば
世にたぐひなき花の影かな
徳川 斉昭
言問通りを走る坂で、根津一丁目から東京大学工学部の北側を西に上る坂です。勾配は緩やかな坂です。(5%:8m/150m)明治2年(1869)これらの地は明治政府に公収されて大学用地になった。明治5年(1872)には、この周辺に町家が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので鉄砲坂ともいわれた。
弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)にこのあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
名にしおふ張るに向ふが岡なれば
世にたぐひなき花の影かな
徳川 斉昭
《撮影日:2009年10月4日》
コメント
コメントを投稿