場所:東京都板橋区志村2丁目
【標識(板橋区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設名(神社仏閣:清水薬師)]
清水坂日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で 唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋 ・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。このあたりは昭和三十年頃までは旧街道の面影をのこしていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によって、その姿を変えました。
旧中山道の坂で、隠岐殿坂・地蔵坂・志村坂ともいう。志村2-4より北西に屈曲して下りる長い急坂である。
清水坂と呼ばれる。また、『江戸名所図会』には「清水坂、志村にあり、世に地蔵坂坂の中程から東に入ったところに、大善寺があり、徳川将軍吉宗が鷹狩りの折り休憩して、崖より落ちる清水を賞して、寺の本尊薬師如来を清水薬師と命名した。このことからとも号く、旧名は隠岐殿坂と呼べり、昔隠岐守某開かる云ゝ故なりといふ。此地険阻にして往還の行人大いに悩めり、依て寛保年間大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力をあわせ、勧進の功を募り記を刈り荊を刈りて石を畳みて階とす。しかありしより行人苦難の患いを逓る」と記している。この時の勧進の由来を刻んだ石碑は、坂の中程にあった石地蔵尊(元禄4年(1691年)造立)とともに現在、坂上の総泉寺に移されている。 「郷土 板橋の坂道」(いたばし まち博友の会)より引用
現在の中山道(志村坂)の西側には旧中山道が残っており、これをくねりながら西に下りる坂が清水坂です。この近くに住んでいたので、坂下におりるのに自転車や徒歩で良く通った坂でした。上るときは息を切らしながら自転車を押していました。坂下では都営三田線が地下から地上に出るトンネル出口に遭遇します。少しきつい勾配となっていますが、曲がりながら下りるのでもっと急な感じがしたものでした。(7%:12m/180m)
《撮影日:2007年5月20日》(上6枚)
《撮影日:2010年7月25日》(下4枚)
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