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金剛寺(こんごうじ)坂

場所:東京都文京区春日2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)金剛寺]   江戸時代、この坂の西側、金富小学校よりに金剛寺という禅寺があった。   この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。  この坂の東より(現・春日2-20-25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。  荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。 春日通りの南側に位置し、東京メトロ丸の内線を跨いで更に南へ下る坂です。 写真でもわかるように、結構きつい勾配のついた坂です。( 11% :9m/83m) 《撮影日:2009年7月4日》

今井(いまい)坂[新坂]

場所:東京都文京区春日2丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)今井四郎兼平]   『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかるなあるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。 新坂 の名のおこりである。   今井坂 の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより 今井坂 と呼ぶようになった。」とある。  この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年に没した。現在、その面影を残すものは、入り口に繁る大公孫樹のみである。  この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり  (釈 迢空)   (この町とは旧金富町をさす) 文京区立金富小学校と国際仏教学大学院大学の間を走る坂です。 「徳川慶喜終焉の地」側を坂上として、南に下る坂です。 結構きつい勾配の坂で、滑り止めが施されているのがわかります。( 10% :10m/97m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2009年7月4日》 <寄り道で見つけた>👀📸 東京メトロ丸の内線の跨線橋 徳川慶喜終焉の地 神田上水路 日本最初の上水と言われる「神田上水」

北野神社男(きたのじんじゃおとこ)坂

場所:東京都文京区春日1丁目 【標識なし】[由来分類:形状・地形(勾配),施設(神社仏閣)] 当社は一一八四年( 元暦 げんりゃく 元年 )源頼朝により創建されました。 牛に乗った菅原道真公の御神託により牛を守護神として讃え牛天神社として八百三十二年の間、此の地をお護りしてまいりました。以来、様々な時代の様々な人々に護られて今日に至っております。 黒牛は道真公の守護神として多くの天神社に祀られています。 御朱印に押印する黒牛は当神社のシンボルであります願い牛をモチーフにしたものです。(牛天神北野神社HPより引用) 《撮影日:2011年1月4日》

牛(うし)坂[潮見坂][蛎殻坂][鮫干坂]【春日1丁目】

場所:東京都文京区春日1丁目 【 標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)北野神社]   北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは 潮見坂 ・ 蛎殻坂 ・ 鮫干坂 など 海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。   牛坂 とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)  『江戸志』に、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなりとある。 安藤坂 の東の牛天神北野神社の北側を走る坂です。 結構きつい勾配のある坂です。( 14% :9m/66m) 《撮影日:2009年7月4日》 <坂の途中で>👀📸 牛天神北野神社へ参拝 最後の写真は 北野神社男坂 です。

安藤(あんどう)坂[網坂]

場所:東京都文京区春日1丁目 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)安藤飛騨守]   この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。  坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、 戦前は「 安藤殿坂 」、戦後になって「 安藤坂 」とよばれるようになった。  古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「 網坂 」ともよばれた 。 伝通院前通り区立三中前交差点を坂下に、南へ上り教育センター前交差点を西に折れて安藤坂交差点に至る坂です。 少しきつい勾配のある大きな坂です。( 6% :14m/220m) 《撮影日:2008年10月12日》 《撮影日:2011年1月4日》 <坂の途中で>👀📸 坂の途中にある萩の舎跡を示す標識

無名坂(音羽1丁目の石段坂Ⅱ)

場所:東京都文京区音羽1丁目 音羽通りの東側、静岡県学生会館学生寮の北側に位置する石段坂です。 《撮影日:2008年11月2日》

無名坂(音羽1丁目の石段坂Ⅰ)

場所:東京都文京区音羽1丁目 音羽通りから東へ、アルス音羽と三井音羽ハイツの間を入ったところにあります。 《撮影日:2008年11月2日》