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1月, 2020の投稿を表示しています

三べ(さんべ)坂[水坂]

場所:東京都千代田区永田町2丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)]   この坂を 三べ坂 といいます。「新撰東京名所図会」には「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗 三べ坂という。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡 辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、 水坂 ともよばれていました。 永田町二丁目、参議院議長公邸と旧永田町小学校の間を、日比谷高校グラウンドを右に見て日枝神社の方に下る坂です。 『新撰東京名所図会』には、「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗 三べ坂 といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありしより名づくといふ。」とあります。 また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役をかねていたところから、この坂は 水坂 とも呼ばれました。(千代田区HPより引用) 青山通りから 南へ下る 坂で、勾配が少しきつい坂です。( 7% :14m/210m) 上の写真(2008年撮影)だと下り勾配がはっきりと見て取れます。 《撮影日:2008年12月28日》 《撮影日:2010年1月10日》

山王(さんのう)坂[鹿島坂]

場所:東京都千代田区永田町2丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣:山王社)] この坂を 山王坂 といいます。この坂のあたり明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられてのでしょう。また一名 鹿島坂 と呼ばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのようによばれたといいます。 永田町二丁目衆議院第一議員会館と第二議員会館の間を 日枝神社(山王社)前に下る 坂です。この坂の辺りは、明治維新まではほとんど山王社の社地でしたから、この名で呼ばれたのでしょう。また、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の屋敷があったので 鹿島坂 とも呼ばれました。(千代田区HPより引用) 衆議院会館前から山王日枝神社側に少しきつい勾配で下っています。( 8% :17m/210m) 《撮影日:2008年12月28日》 <坂の途中で>👀📸 赤坂山王散歩石標

山王切通し(さんのうきりどおし)坂

場所:東京都千代田区永田町2丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(神社仏閣)、形状・地形(切通し)]   山王鳥居(赤坂側)をくぐりぬけ左手にある坂道で外堀通りと平行に南北に走っています。 車で参拝される方が利用されます。 一旦上って途中から少し下るという坂です。 勾配はそこそこあり少しきつい坂です。( 6% :8m/130m) 《撮影日:2010年1月10日》

山王女(さんのうおんな)坂[御成坂]

場所:東京都千代田区永田町2丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:施設(神社仏閣)・形状・地形(勾配)]   この坂を 山王女坂 といいます。正面の石段に対しその名がつけられています。また別の名は 御成坂 とも呼ばれています。東京名所図会には「左緩かに通ずる石階 を女坂 と呼ぶは非なり。昔時将軍家御成の節、岐坂を避け此坂のみ御通行遊ばれしより御成坂と申侍るを 女坂 と聞誤しにあらぬかと」とかかれています。 日枝神社正面の 山王男坂 の左手を迂回するように上る坂で、 山王 男坂 より勾配が緩くなっています。将軍の参詣の時だけ用いられたので、別名 御成坂 とも呼ばれました。(千代田区HPより引用) 男坂を迂回していて緩やかに見えますが、勾配は約9%もあります。( 9% :15m/160m) 《撮影日:2008年12月28日》

山王男(さんのうおとこ)坂

        場所:東京都千代田区永田町2丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)・形状・地形(勾配)] この坂を 山王男坂 といいます。日枝神社の表参道。左側のゆるやかな坂「 女坂 」に対して名づけられています。二つの坂を比較して急な坂を 男坂、ゆるやかな坂を女坂と 呼ぶことは各地にみられます。石段の数五十三。山王の地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でありました。 永田町二丁目の日枝神社の表参道で、正面の鳥居から五十三段の石段を上る坂です。 日枝神社は元は日吉山王大権現といい、太田道灌が川越から江戸城内に勧請し、江戸鎮守の神として祀り、徳川家康が入府してからは将軍家の産土神として崇敬されて来ました。しかし、慶長年中(1604-1614)の江戸城改築にともない半蔵門外に移り、明暦3年の大火で焼失し、万治2年に現在地に再建されました。太平洋戦争で再び戦火を被り、10年にわたる歳月を経て昭和33年に復興しました。日枝神社のある山王台地は、「星が岡」ともいわれ、溜池を臨む景勝の地でもありました。(千代田区HPより引用) 《撮影日:2008年12月28日》 《撮影日:2010年1月10日》 <坂の途中で> 👀📸 山王日枝神社 参道 稲荷参道 日枝神社は江戸の裏鬼門(南西方向)を守護する位置に徳川幕府が配置した神社です。先日のBS放送でも紹介されていました。江戸城を結んで表鬼門である北東には神田明神があります。

無名坂(永田町1丁目の坂)

場所:東京都千代田区永田町1丁目 総理官邸前から内閣府下交差点までの坂で、写真右手が内閣府左手が総理大臣公邸です。 永田町1丁目6番地と2丁目3番地の間にあります。 年末のためか静かな大通りのイメージだったのを覚えています。 この坂の傾斜は少しあります。( 6% :13m/210m) 《撮影日:2008年12月28日》

梨木(なしのき)坂【永田町1丁目】

場所:東京都千代田区永田町1丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:植物(梨)]   この坂を 梨木坂 といいます。「江戸紀聞」では、「 梨木坂 、井伊家の屋敷の裏門をいふ。近き世までも梨の木のありしに、今は枯れてその名のみ残れり」とかかれています。さらに「東京名所図会」には、「陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を 梨の木坂 という」とかかれています。 永田町一丁目、社会文化会館の西横を 国立国会図書館を右手に見ながら上る 坂です。『江戸紀聞』に「 梨の木坂 、井伊家の屋舗の裏門をいふ。近き世までも梨の木ありしに、今は枯れて其の名のみ残れり。」とあります。(千代田区HPより引用) 国立国会図書館の東側を走る坂で、勾配は緩やかです。(3%:5m/180m) 左が国立国会図書館、写真の奥が坂下で 首都高速4号線の高架が見えます。 《撮影日:2008年12月28日》

茱萸(ぐみ)坂[番付坂]

場所:東京都千代田区永田町1丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:植物(ぐみ)] この坂を 茱萸坂 といいます。またの名を 番付坂 といいました。「新編江戸志」には丹羽家の表門から見通すことができ内藤紀伊守、本多伊勢守の門を抜けて九鬼長門守へ出る坂で「両側にぐみの木ありし故の名なり」とかかれています。「東京名所図会」では「 番付坂 、 茱萸坂 の一名にして昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の列に花車の番付札ありて其行列をあらためしよりいう」とかかれています。 永田町一丁目、国会議事堂の南側を東に下る坂です。その先は 潮見坂 に続きます。 番付坂 と呼ばれたこともあります。『新編江戸志』では「丹羽家表門見通し、内藤紀伊守殿本多伊勢守殿中屋敷の間、九鬼長門守殿屋敷の前に出る小坂なり。両側にぐみの木ありし故の名なり。」とあります。 『新撰東京名所図会』には、「永田町一丁目と三年町の間を清国公使館前に上る坂を呼ぶ。 番付坂 は 茱萸坂 の一名にして、昔時山王の祭礼には、必ず此ところにて、花車の番付札ありて其の行列をあらためしよりいう。」とあります。(千代田区HPより引用) 東(霞が関)を坂下として 西(総理官邸前)に上る 緩やかな坂です。(3%:8m/260m) 《撮影日:2008年12月28日》 <坂の途中で>👀📸 この坂の撮影時に、機動隊員から職務質問を受ける羽目になりました。 よっぽど怪しい人物に見えたのでしょうか。 年の瀬を押し迫った時期に、マスクをして黒い上着とカメラを持ってうろうろしていたら誰でもそういう風に見られても仕方がありませんね。(´;ω;`)

明神女(みょうじんおんな)坂

場所:東京都文京区湯島3丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(神社仏閣)・形状・地形(勾配)]   神田神社社務所裏を南に20mほど行って突き当たった所から、左の方に下る石段の坂です。ちょうど、明神男坂から60mほど南に平行しています。このほか神田神社の周囲には、表参道・裏参道の坂、神門前から西に下る坂、隣接する宮本公園の北と西の坂などがあります。(千代田区HPより引用) 有名な 明神男坂 (標識あり)の南側に位置しています。 女坂 とはいえ、結構な勾配の石段坂です。 《撮影日:2011年1月4日》

明神男(みょうじんおとこ)坂[明神石坂]

場所:東京都千代田区外神田2丁目 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)・形状・地形(勾配)]   この坂 を 明神男坂 といいます。 明神石坂 とも呼ばれます。「神田文化史」には「天保の初年当時かんだの町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を明神へ献納した」と 男坂 の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標となったという話や、坂からの眺めが良いため毎年一月と七月の二六日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。 神田神社の境内にある明神会館のわきから、東に下る石段の坂です。天保の頃、最初に作られたと伝えられています。「 明神石坂 」の別名もあります。(千代田区HPより引用) 男坂なので勿論のことですが、急な石段坂になっています。 《撮影日:2008年7月2日》 《撮影日:2011年1月4日》 <寄り道で見つけた>👀📸 神田明神 正式名称・神田神社。東京の中心―神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場―、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。 一之宮 大己貴命(おおなむちのみこと) だいこく様。縁結びの神様。天平2年(730)ご鎮座。国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています。また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われています。大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。れ、国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります。 二之宮 少彦名命(すくなひこなのみこと) えびす様。商売繁昌の神様。商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様です。日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをなされました。 三之宮 平将門命(たいらのまさかどのみこと) まさかど様。除災厄除の神様。延慶2年(1309)にご奉祀。平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはか

無名坂(三番町の坂Ⅱ)

場所:東京都千代田区三番町 北に 御厩谷坂 (三番町)、南に 袖摺坂 (一番町)その間にある坂です。 三番町5番地と7番地の間にある坂です。 緩やかな傾斜の真っすぐな坂です。(4%:5m/120m) 《撮影日:2008年12月28日》

東郷(とうごう)坂

  場所:東京都千代田区三番町 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅>]    この坂を 東郷坂 といいます。東郷元帥の邸西側にあるこの坂は明治38年(1905)10月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますがはっきりしていません。今は 東郷坂 、 法眼坂(行人坂) 、 南法眼坂 の三つの名に分かれていますが、古い地図をみると「 法眼坂 」のみかかれています。 行人坂を下り切った所から、東郷元帥記念公園の西側 を北に上る 坂です。東郷元帥記念公園は、東郷平八郎元帥邸跡が区に寄贈されてもので、公園として区民に親しまれているものです。(千代田区HPより引用) 番町学園通りと東郷通りの交差点を坂下として 行人坂 と対峙する坂です。 この辺りも傾斜地が多くあり坂の宝庫となっております。 この坂の勾配は緩やかです。(5%:6m/130m) 《撮影日:2008年12月28日》 <坂の途中で>👀📸 番町学園通り 東郷通り

行人(ぎょうにん)坂[法印坂][法眼坂]【三番町】

場所:東京都千代田区三番町 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:人名(総称)] この坂を 行人坂 といいます。「東京名所図会」には「 行人坂 、 上六番町と中六番町との間を南の方へ上る坂を称す」とかかれています。「御府内備考 」に「 行人坂 、古某法印と称する行人この辺に居するゆえにこの名あり。また 法 印坂 とも呼び或は転化して 法眼坂 という」。 もともと 法眼坂 を 起伏により 東郷坂 、 行人坂 、 南法眼坂 と三つの名に分けてよんだものであり、 法眼坂 の名称だけの地図も多いようです。 南法眼坂 からさらに北に下る坂です。『御府内備考』に「行人坂、古、某法印と称する行人この辺りに居するゆへこの名あり、また 法印坂 とも呼び 法眼坂 といふ。」と述べられているところから、坂の名がつけられたと思われます。なお、 南法眼坂 ・ 行人坂 と次の東郷元帥記念公園西側の 東郷坂 は、南北に続く上がり下がりの坂道で、古くはこの坂道全体を 法眼坂 と呼んでいたようです。(千代田区HPより引用) 東郷通りと番町学園通りの交差点から南方面(番町文人通り)へ下る坂で、 東郷坂 と前述の交差点を挟んで対峙している坂です。 勾配は緩やかな坂です。(5%:6m/120m) 《撮影日:2008年12月28日》

新(しん)坂【五番町】

場所:東京都千代田区五番町 【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】   [由来分類:設置時期]   この坂を 新坂 といいます。新しく作られた坂ということでしょう。江戸時代の地図をみますと、ここに道はなく、人々は東側の帯坂や西側の 三年坂 へ迂回しなければなりませんでした。しかし、明治23年(1890)3月の「東京市区改正全図」には三等道路として、この道を通す計画が書き込まれています。大正元年(1912)の「東京市麹町区地籍地図」では、この道を地図上で確認できます。 JR市ヶ谷駅から南に五番町を上る坂です。「日本テレビ通り」の北の入り口になります。この通りは、明治中頃の道路計画に含まれていたのですが、工事が遅れ、明治末年になってやっと実現しました。住民の待ち遠しかった気持ちが坂の名に表れているようです。(千代田区HPより引用) 二七通りから 都営新宿線市ヶ谷駅方面へ下る坂 で、勾配の少しきつい坂です。( 6% :10m/180m) 《撮影日:2008年12月28日》