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5月, 2020の投稿を表示しています

地蔵(じぞう)坂【東向島1丁目】

場所: 東京都墨田区東向島1丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(神社仏閣)子育地蔵堂] 墨田区唯一の名のある坂です。 名前は地蔵坂通りとして有名です。 ご覧の通りの勾配ですから、坂と呼ぶには・・・。(0%:1m/220m) それでも後述する子育地蔵堂の説明には”「 地蔵坂 」で知られている”、と出てきております。 《撮影日:2009年5月4日》 <坂の途中で>👀📸   子育地蔵堂 所在 墨田区東向島三丁目二番一号            この小堂に祭られている子育地蔵は、 文化年間(1804~            1817)に隅田川の堤防修築工事の際、 土中から発見され            たと伝えられています。 初は村の子供たちが、 神輿がわり  にこの地蔵をかついでいたそうです。            ところがこの地に古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、            ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が村のこどもの            口をかりて犯人をお告げになり、 たちまち犯人を捕えること            ができました。 この奇跡に驚いた平作は、 当所に地蔵を安 置して供養を怠りませんでした。            その後、 将軍家斉が当地に鷹狩に来て、 平作方に小憩の            際、 地蔵の由来を聞いて感銘し、 帰城の時にお参りしまし            た。 平作はこれを記念して小堂を建てて、地蔵を安置した         ところ、 多くの人々が参詣するようになりました。            このお堂の前の坂は明治四十四年、 堤防修築の時にでき           たものですが、今も「 地蔵坂 」の名で知られています。                 昭和六十二年三月                                      墨田区

★台東区の坂道散策Ⅱ★

  今回の坂道散策ルート (名前のある坂名のみ記載) ★北区の坂道散策Ⅴ★   ➡ ● 谷中5丁目  蛍坂  ➡  三崎坂  ➡ ● 谷中2丁目  真島坂  ➡  あかぢ坂  ➡ ● 谷中1丁目   三浦坂  ➡  善光寺坂  ➡ ● 池之端4丁目   三段坂  ➡  清水坂  ➡ ●上野公園  稲荷坂  ➡  忍坂  ➡  清水坂  ➡ ●上野7丁目  車坂  ➡ ●上野公園  新坂  ➡ ● 上野桜木1丁目   寛永寺坂  ➡ ●谷中7丁目  御穏殿坂 ➡ < JR山手線日暮里駅>   森鴎外住居跡(池之端3丁目) 上野東照宮は修理中でした! 上野動物公園 弁財天 西郷隆盛像    ★台東区の坂の位置は こちら で見ることができます★ (2008年10月9日  自身の 他ブログ 投稿済の 記事を 修正・再掲)

★台東区の坂道散策Ⅰ★

  今回の坂道散策ルート (名前のある坂名のみ記載) ★荒川区の坂道散策★  ➡ ●谷中5丁目  七面坂  ➡ ●谷中7丁目  御殿坂  ➡  紅葉坂  ➡  芋坂 ➡   ★荒川区の坂道散策★ 今日は荒川区から台東区の坂道を歩きました。 芋坂 は台東区(坂上)荒川区(坂下)にまたがっています。 日暮里周辺おさんぽMAP 谷中ぎんざ 旧谷中初音町界隈 ★台東区の坂の位置は こちら で見ることができます★ (2008年9月5日  自身の 他ブログ 投稿済の 記事を 修正・再掲)

台東区の坂 雑感

台東区は 武蔵野台地 の東端に位置しており、京浜東北線を境として西側には台地が広がっています。 区の西側境界部分は、営団千代田線(千駄木・根津・湯島)に沿って比較的大きな谷地となっています。 台東区の坂は上野台地から各低地・谷地に流れる坂が多くあります。 上野台地の西側 西側に流れる坂の代表として 三浦坂 あかじ坂 上野台地の東側 東側に流れる坂の代表として 新坂 寛永寺坂 御殿坂 いずれの坂も勾配は緩く(それほどきつくなく)上野台地の端が極端な崖になっていないことがわかります。  谷中一帯は墓地があるせいか寺が多いのは当たり前ですが、根津・千駄木のある低地には少ないのが見てとれます。  やはり寺は他の建物とは違い(スクラップ&ビルドが少ない)、古くから位置を変えずに存在しているため、地勢的にみても強固な地盤の場所の上に立っている可能性が高いそうです。そのため現在まで存在し続けているのでしょうか。 低地が水害や地震等で危険かどうかは別にしても、寺があることによってその地の地勢学的な安心感みたいなものが少し見える気がしました。

紅葉(もみじ)坂[幸庵坂]【谷中7丁目】

場所:東京都台東区谷中7丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:植物(紅葉)] 坂道周辺の紅葉が美 しかったので「 紅葉坂」 と 命名されたのだろう。別名「 幸庵坂 」ともいった。その命名由来は不詳。江戸後期の国学者, 山崎美成(よししげ)は「金杉日記」に, 「天王寺うら幸庵坂下, 又三しま社のほとり秋色尤もふかし, 林間に酒を煖む」と記している。 この記事によると, 幸庵坂 の名は江戸時代すでにあったことが知られる。 JR日暮里駅南口と谷中霊園を繋ぐ階段併用の坂です。 階段部はきつい勾配がありますが、他は緩やかな勾配の坂です。(5%:1m/19m) 《撮影日:2008年9月5日》

御殿(ごてん)坂【谷中7丁目】

場所:東京都台東区谷中7丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:  ] 文政12年(1829)に成立した『御府内備考』には, 「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが, 「根岸」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には, 長さ15間(約27.3メートル) 幅2間(約3.6メートル)とあるが, 現在の坂の長さは50メートル以上あり, 数値が一致しない。以前は, 谷中への上り口に当たる急坂を「 御殿坂 」と呼んだが, 日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため, その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと 考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが, 根拠は定かではない。 JR日暮里駅西口を坂下にして、東に上る坂です。 坂の勾配は少しきついです。( 7% :4m/61m) JR日暮里駅西口がある橋の名が、下御隠殿橋とあるので益々由来が分からなくなりました。 《撮影日:2008年9月5日》 《撮影日:2013年3月15日(上京時)》

御隠殿(ごいんでん)坂

場所:東京都台東区谷中7丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)] 明治41年(1908)刊『新撰東京名所図会』に、「 御隠殿坂 は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て 御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より 御隠殿への通路なりしを以てなり」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。 「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。 JRの跨線橋を渡ったところを坂下にして、西に上る坂です。   少し勾配のある坂で、幅の狭い坂です。( 6% :3m/49m) 《撮影日:2008年10月9日》

芋(いも)坂【谷中7丁目】

場所:東京都台東区谷中7丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:産地・特産品(自然薯)]  坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺に通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付けられて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で 自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石、田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。            芋坂も団子も月のゆかりかな           子規 荒川区の羽二重団子の店からJRの跨線橋を通り、谷中墓地へ通ずる坂です。 今は少しきつい勾配のある坂となっていますが、鉄道線路で分断される前はもっときつい傾斜がある坂だったのでしょう。( 6% :10m/180m) 《撮影日:2008年9月5日》

七面(しちめん)坂【谷中5丁目】

場所:東京都台東区谷中5丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(神社仏閣)七面堂]   宝暦年間の「再校江戸砂子」に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3-10)は坂下にあるもと日蓮宗の寺。七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3-10)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。 坂は「御府内備考」の文政9年(1826)の書上によれば、幅二間(約3.6メートル)ほど、長さ五十間(約90メートル)高さニ丈(約6メートル)ほどであった。なお宗林寺は「再校江戸砂子」に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。 荒川区との区界にある坂です。 荒川区の坂にも出てきますが、ここは台東区の説明だけにとどめます。 北側には有名な夕焼けだんだんに続く谷中銀座があります。 坂は東から西へ下る少しきつい勾配があります。( 9% :6m/70m) 《撮影日:2008年10月9日》 <寄り道で見つけた>👀📸 話はそれますが、谷中は駒込台と上野台との間の谷から谷中という地名になったと言われています。 少し離れた谷中7丁目にある区立朝倉彫塑館です。

無名坂(谷中区民館横の石段坂)【谷中5丁目】 

場所:東京都台東区谷中5丁目 蛍坂 の途中を左に入り北に下る階段坂です。 谷中区民館の西側を下る階段坂です。 《撮影日:2008年10月9日》

蛍(ほたる)坂[三年坂]

場所:東京都台東区谷中5丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:動物(蛍)]   江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ、蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろ。『御・・・[字が消えて読めず]「宗林の辺も 蛍坂 といへり」と記し、 七面坂 南方の谷へ「下る処を中坂といふ」と記している。中坂・・・[字が消えて読めず]と 七面坂 の中間の坂なのでそう呼んだ。 三年坂 の別名もある。 本立寺の西側を南から北へ下る坂です。 珍しく北中の標識が立っていましたが、古いせいか文字が消えかかっていました。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :5m/80m) 《撮影日:2008年10月9日》

三崎(さんさき)坂[首ふり坂]

場所 :東 京都台東区谷中5丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:旧地名]   『御府内備考』に、「 三崎坂 」の名が記されている。『御府内備考』は江戸の地誌。文政12年(1829)完成である。名称は付近の地名にちなむ。『江戸名所図誌』に 「 三崎 坂  俗 に 首ふり坂 という。三十年ばかり前、首をふる僧此坂にありしゆえ呼びならばせしなり。」と記している。これに基づくと、 三崎坂 は別名『 首ふり坂 』とも呼ばれた。 全生庵の南側を西から東に緩やかに上る坂です。(5%:11m/230m) 《撮影日:2008年10月9日》 《撮影日:2011年2月13日》 <坂の途中で>👀📸 全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている 。 全生庵

真島(まじま)坂

場所:東京都台東区谷中2丁目 【標識なし】 [由来分類:旧地名(谷中真島)] 区立谷中小学校の南側を西から東に上る坂です。 少しきつい勾配のある坂です。( 7% :7m/96m) 《撮影日:2008年10月9日》 <寄り道で見つけた>👀📸 ここらあたりが谷中真島町であることを示す旧町名案内板です

あかじ坂[明治坂]

場所:東京都台東区谷中2丁目 【標識なし】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)] 「この坂上に明治の大財閥渡辺銀行の創始者明治屋治右衛門の屋敷があり、この坂も明治(あかじ)と呼ばれた」と観光案内板にありました。 近くには「大名時計博物館」があります。 三浦坂 と平行して走る坂です。 坂下をまっすぐ降りると、不忍通りの根津神社入り口に出ます。 少しきつい勾配のある坂です。( 6% :9m/150m) 《撮影日:2008年10月9日》 《撮影日:2009年10月4日》 《撮影日:2011年2月13日》

三浦(みうら)坂[中坂]

場所:東京都台東区谷中1丁目 【標識(台東区教育委員会設置)の説明】 [由来分類:施設(屋敷・邸宅)] 「御府内備考」は 三浦坂 について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり。 一名 中坂 と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、 三浦坂 と 呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を登る左側にあった。 三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、 三浦坂 両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。別名の 中坂 は、この坂が 三崎坂 と 善光寺坂 の中間に位置していたのにちなむという。 善光寺坂 と 三崎坂 との間とありますが、 三浦坂 と 三崎坂 のあいだにも あかじ坂 や 真島坂 があります。 中坂 と言われたころには、 あかじ坂 や 真島坂 という坂がなたっかたのか、名前が付いてなかったのかと色々と想像を掻き立てられ ます。 勾配は少しきつい坂で、北東から南西に下る坂です。( 9% :11m/120m) 《撮影日:2008年10月9日》 《撮影日:2011年2月13日》